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聖徳をまとう_二/故郷にて(4)
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◇
太子町に飲食店は少ない。叡福寺で私をピックアップした横谷姉弟はそのまま車を隣町の羽曳野市まで走らせた。車中、香苗は運転席に座る弟を紹介してくれた。
「どうも。肇です。いつも姉がお世話になっています。秀太さんとは、昔、地元のお祭りで会ったことがあるんですよ」
ルームミラー越しに折り目正しく目礼する肇に、後部座席に座る私は会釈で応じた。秀眉の下で姉によく似た細い目が清爽な笑みをたたえている。ツーブロックに整えられたアッシュカラーのマッシュパーマが窓から入る夕風にそよいでいた。
肇が大学を卒業したばかりと聞かされ、驚いた。ひとまわり近く年の離れた姉弟ということになる。
「今日は姉ちゃんと秀太さんのためのハンドルキーパーです。しがないバイト暮らしですしね。姉には頭が上がりませんよ」
肇の操るハスラーは、羽曳野市の中心部にあたる古市駅前に到着するや、駅裏に広がる住宅街のなかの小さなコインパーキングに駐車した。すぐ目の前に古民家風の居酒屋があった。
「お待たせしました」
「さぁ、飲もう!」
夕餉の薫りに導かれ、引き戸をくぐった。
秋冬にはジビエ料理を供する店なのだという。残念ながらシーズンではなかったが、それでも焼き物を中心にどの料理も美味で、ソフトドリンクで済ませる肇には申し訳ないと思いつつも自然と酒は進んだ。
三時間ほどは飲んだろうか。私たちは思い出話に花を咲かせた。私や香苗の幼少期、地元では子供の数が少なかったこともあり、高校に進学するタイミングで疎遠になる者こそいたが、小中学生の頃まで――特に小学生時分は何をするのも皆一緒だった。学校行事、地域の祭事や日々の小さな冒険の記憶。
それにしても――社会に出てから没交渉であった間の情報を埋めようとしないのは、むしろ互いどこかそれを避けているようにも思えるのは偶然だろうか。いや、きっと無条件に無邪気であることが許された時代の思い出は何のてらいもなく扱えるぶん、語りやすいのだろう。少なくとも私にとっては。
誰しも年を取る。そして、ひとたび社会に出ればシビアな競争に晒され、自分が何者であるかの証明をとたんに求められるのが世の常だ。社会に出て何年経った。さぁ、オマエは何者になったのか。何を為したのか。顕示したい人がいることを理解する一方で、触れられたくないと言う人の気持ちもわかる。旧知が身を寄せ合うということは、そんな牽制や駆け引きの応酬を受け入れるということなのだ。
「ちょっと失礼」
そう言って正面に座る肇が立ち上がった。
「またトイレ?」
からかう香苗に、肇は手に持ったハイライトの箱を示しながら外に出て行った。
「肇くん、タバコ吸うんだ」と、私。
「やめろって言ってんやけどね。今日はしゅうちゃんの手前ガマンしてるみたいやけど、ヘビースモーカーやからね。なかなか帰って来ないよ」
隣にいる香苗の声がどこか遠くから聞こえる気がする。長い一日だった。酩酊を超して身体が泥に溶けていく感覚。澱のように溜まった疲労が私の全身に隈なくアルコールを染み渡らせていく。
「香苗さん、あのさぁ――」
話すことを決めて口を開いたというより、言葉が勝手に流れ出た。タガが外れたのだ。身に余る酒量を取り込み、そして、気の置けない人物に触れて。タガが外れると、あとは溜め込んでいた内容物が溢れ出るだけ。
「実は、バカなことしちゃってさ。それから色んなことがあって――最近、混乱してんねん」
「そうやったんや。道理で。最初にコンビニで会ったときもぼぅっとしてたもんね」
「香苗さんと話してると、吐き出したくなった。勝手でごめん。聞いてくれるだけでいいから」
目は合わせられない。うつむいたまま、ビールジョッキについた水滴をじっと見つめる。
「はぁ。どのくらいバカなことなのかな。あたしで良ければ聞くよ」
清冽な声音に背中を押され、
「ありがとう」
私は語り始めた。春からの椿事を。
ユミと出会ってからのことを細大漏らさず私は一息に語り終えた。三月に大阪に戻って来てからこの二ヶ月ばかりの出来事をあまねくこうして他者に伝えるのは初めてだった。
「まだこの先どうなるかわからないけど、少し気持ちが軽くなった」
偽らざる本音だった。上目遣いに、恐る恐る香苗の表情をうかがう。そこには、口を真一文字に結び、眉を吊り上げた旧友の顔があった。
「しゅうちゃんさぁ。あたしが思ってた百倍くらいバカなことだったよ。びっくりしたわ。ダメだって、ストーカーは。気持ち悪い」
容赦の無い難詰に思わず涙がこぼれそうになる。多少は弁明を試みようと口を開きかけたそのとき、香苗は破顔した。
「ハッハ! 嘘だって。そんな深刻な顔しないでよ。気持ち悪いと思ったのは嘘じゃないけど、嘘うそ。キライになんかならないからさ。まぁまぁ、落ち着いて」
ジョッキを私の腕に押しつけてくるので、受け取って琥珀色の液体をあおった。ビールは気が抜けていた。私と同じだ。
「でもさ。ユミさん――いや、澄子さんだっけ。しゅうちゃんのストーカー行為は確かにキモいけどさ。だけど、女性のあたしが言うのも憚られるけど、今どき、風俗稼業とは言っても、どこの馬の骨とも知らない客に家がバレたくらいで自殺なんてするかね。あ」
不謹慎な発言をしたと思ったのか、舌を出す香苗。
「それは――言いにくいけど、もしかしたらユミさんが河下美月だったかも知れないなら説明はつく」
「文字どおり身元がバレる――身バレってやつね。でも、そもそも、しゅうちゃんが客として現れる前から地元で噂は流れてたんでしょ。どっちにしたって、あたしは無いと思う。死んだはずの美月が実は生きてて風俗嬢をやってたなんてさ。それはいくらなんでも考えすぎでしょ。他人のそら似やって。そう考えれば不思議なことなんて何も無い」
「まぁ、確かに――そうなのかもしれない」
「とにかくあまり悩みなさんな。ハゲるよ」
香苗の手が私の後頭部を支えるように廻された。そのまま上半身を寄せて来たかと思うと、鼻がつく距離に香苗の赤ら顔があった。そして、酒臭い息を感じながら、口唇が重なった。
「あたし、キス魔やからね。男だけじゃない。女性にだってするから。両方」
「噛みつき魔じゃなかったのか」
「それも両方――」
蠱惑的な瞳が揺れた。
◇
肇が戻って来るのと入れ違いに今度は香苗が席を立った。
「姉ちゃん、トイレ?」
「ああ、多分ね」
煙草の匂いを漂わせながら向かいに腰を下ろした肇は、ぬるくなった烏龍茶に口をつけた。私は、正面に座る肇を見るともなく見ながら、何の気なしに親指で自分の唇をこすった。指の腹を見ると、香苗の口紅だろう――擦れた朱色が乗っている。
「秀太さん、起きてます?」
グラスを下ろしながらそう言う肇は微苦笑を浮かべている。よほど私の挙措がおぼつかないのだろう。
――大丈夫、起きてるよ
応えたつもりだが、果たして言葉になったかはわからない。
「まぁ、いいや。秀太さん、これは俺からの一方的なお願いなんやけど、姉ちゃんのことお願いしますね。最近、姉ちゃん、俺からすると胡散臭い男に入れ込んでるみたいで様子がおかしな時も多いねん。でも、今日は自然体――というか普通。多分、昔なじみの秀太さんと再会したからやないかな。これからもどうか――」
肇の声と店内のざわめきがないまぜになって耳を抜けていく。ひといきれにさえ今はどこか居心地の良さをおぼえながら、正体を失った私の視界はゆるやかに暗転した。
――続(三/地を這う(1)へ)