羊たちの沈黙
こんなに、複雑な映画はある?
出会いはなに?
意味不明なその映画表現には全てに意味があって、その全ての意味に私は陶酔する。
はぁ。
もう、それだけでセクシュアルでそばにあるものでイッちゃいたいくらい、セクシュアルで堪らない。
アメリカ映画の性表象としては、1991年制作の「羊たちの沈黙」にフォーカスして考える。羊たちの沈黙は、ジョナサン・デミ監督により作成され、レスター博士、ハンニバルレクター(アンソニー・ホプキンス)とバッファロー・ビル(テッド・レヴァイン)、そしてクラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)からなるアメリカの歴史的背景である恐怖を掻き立てる、隠蔽された戦争を回帰させる映画だ。説明するまでもなく、この作品はタクシードライバーと照らし合わせることができる。関係はないが、ジョディ・フォスターもフォーカスとしては違うが、共通の登場人物である。猟奇殺人を繰り返すバッファロー・ビルは、ヴェトナム戦争の帰還兵であるということだ。アメリカの闇を抱え、とてつもない精神麻痺や、精神の歪み、揺れを感じる。生を渇望し、狂気と憎しみに満ちた彼の内面をスクリーンを通して意図的に表現する。歪みは美しく、とてつもなくセクシュアルである。無自覚な歪みは、いずれ視覚的に欲せられる。しかし、他の映画と著しく異なるのは、彼に感情移入は出来ない。彼にしか分からない苦しみや表現の仕方は、目を背けたくなる。なんともこの映画は、性を表現し、直接的に違和感を感じさせる作品である。
最初のシーンから小柄な女性を焦点として男性から、「見られる」という性の対象として描かれている。80年代とはまた異なる歴史的背景を元に、社会風刺した社会構築の土台を築いている。
常に動く女性を性的な目で彼女を追いかける男性がいる。女性が、見る行為によって男性からも見られるという客観的表現で描かれている。精神病院に収容されているレクター博士との対峙の場面であっても、クラリスは檻の中のレクターを見る対象であるのにも関わらず、地下に行くと、クラリスは見られる対象として描かれている事がわかる。檻の中の男性に精子をかけられる、舐めるように見られる、レクターからの執拗な視線。彼女は真っ直ぐ彼らを見るがその目には恐怖が映る。その時点で男女としての強さの差が歴然としている。檻に入って見られているのは、閉じ込められているのは、クラリス自身の方ではないかという示唆に至る。この映画で出てくる男性陣、そしてレクターの視線はセクシュアルであり、常に目で彼女を犯す。見るという行為によって性的な欲望を表現し、人間の性的役割の不信感を表す。スクリーン越しでさえ感じる緊張感は同じ女性であるからこその嫌悪感でもあるのだろうか。
レクターとの対話の中では、事件の質問に対する報酬としてクラリスの過去について聞き出す場面がある。常に彼女は観られる、監視される側として描かれており、性的に弱さが露呈するトラウマを報酬に、男性の欲求を満たしているのだ。怯えた表情や、女性ならではの柔さを引き出す。暗闇の中で、クラリスからは見えてないはずであるのにレクターは彼女を捉えている場面では、立場の違和感に気づくことができる。本来映画を観る側の思考に与えられた情報とは対象的な立場が存在している事に気付く。鉄格子の中であるからこそ叶えられない男性としての欲望や性欲がまた魅惑的な目線を引き出している。沈黙の中にある葛藤や余裕からは、一線を超えた感情や違和感を覚える。何かを守るために備えた壁は今の社会にも重ね合わせることができる。
クラリスはFBIの中で一人前を目標に男性像を自分に投影し事件の本質を見て、事件のファイリングを見て強く戦う女の様に描かれるがそれとは対象的にそれらを見る彼女を、女性としてセクシュアルな目で男性は見る。クラリスが追っているビルについても、ビルは女性の皮膚を引き剥がし、衣服にする事によって女性像になる欲求を満たそうとする。これもまた、クラリスとビルが一見対峙する位置関係であるが、同じ欲求によって強く突き動かされている事が分かる。最後の場面では暗闇の中で、男性像を投影するクラリスは盲目の中、女性像を投影するビルは暗視スコープによって視界は明確である。彼女を捉える目は結局は女性ではない男性むき出しの目で、見る行為によって女性を味わっている。クラリスが事件に迫り、本質を見る行為をすればするほど、クラリスは見られる対象として犯されるのである。
最後までこの映画を観たことがあるが、この映画では見る行為がいかにセクシュアルであり、人間の性の欲求を満たす行為として具現化しているのか、映画を見ている側自身の欲求にも訴えかけているのではないかと考えさせられる。クラリスを演じるジョディフォスター自身も同性愛者として知られているが、映画自身がセクシュアルな目で見る事が出来る。直接的な表現ではない、見るという行為によって、男女の性について言及している。
そして、なんといっても性を描く上で用いられるのは我が日本であるということだ。今だからこそ、日本は勤勉であり、礼儀正しく、奥ゆかしいというイメージであるが、セクシュアルな表現や映画、ドラマ少しの映像の中では日本の文字やイラストが見られることが多い。猟奇殺人を繰り返すバッファロー・ビルが着用する上着にも日本が描かれていることが分かる。いつから日本はそのような目線で世界から見られているのだろうか。なぜその対象となったのだろうか。やはり、歴史的背景や、価値観の中にある真の美としての役割が世界とは少し異なっているからであろう。彼の扮する全裸でのドラッグクイーンでさえも、アート作品として感じられるのだ。彼の話し方や表現方法、その場面で描かれるシーンの全てには背景にある虐待や、今までの経験から解放されるための手段であり、同じ状況を重ね合わせる。違和感を詰め込み、人間がスクリーン越しでさえ感じる恐怖はまさにその違和感から掻き立てられる創造力である。同性愛者は世界を超え、違和感は排除すべきものとして憎むべき偏見として、そして居場所を失った者と二重の苦しみを映し出し、セクシュアルに、究極の狂気と憎しみに満ちた恐怖に変化する。男性の眼、というものは男性の性器として捉えられるものであり、暗視スコープを用いてクラリスを観る彼の目は猟奇的であり、男性的である。盲目の彼女がうろたえる姿はいつまで経っても、女性は何かの美の象徴であり、表現の的であるということである。
背景に存在するヴェトナム戦争の魂の亡霊は見失うことなく、自由を欲し、そのため肉体を欲しスクリーン越しに自らの肉体を作り出す。これこそが、女性の皮膚で服を作るという、この映画で一番強烈なシーンである。自由を欲するあまり、不自由な存在として表現されていることも明らかである。違うものになろうとする根本的な違和感や歪みを表現するのである。痛々しくも美しく、自分の生き方や、向き合い方を一人で完結させているのだ。この映画では、男女の性や価値観、向く方向、経験背景から貫く正義はお互い違えど、解決できない何かのために、共通して生きる為にもがく姿がみてとれる。善悪では片付けられない闇を抱え、本質を結局は見えないまま葛藤する人間臭い不器用さや純真さも感じられるのではないだろうか。
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