シェア
コンカフェで、なんだか話の好きな人に当たった。思い付くままに話してしまう。それでたまに「結論は何?」と言われてしまうらしい。僕は別にそんなに嫌だとも思わなかったけど、落ちの無い話が嫌な人もいるらしい。 小説を書いてみて、自分の分身のような存在を作るような感じだなと思った。エッセイや論文は、こうであるとか、これをしたとか、伝えたい内容が定まっているから、その結論というかメインテーマに沿って書いていくことになる。一方で、小説は、もう少しテーマというものへの意識は薄くて、とにかく
少し実験をする。 なんとなく、ナンセンスな、断片的なつながりの文章になるのかどうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 雪が降っている。駅のホームは静かに寒さが沈んでいて、ゆっくりと線路が白くなっていく。コートのポケットに入れた手をもぞもぞと動かす。歩いている間に冷え切ってしまって、それがなかなか温まらない。手を出して、息を吹きかける。白い息が、手の中で渦を巻いている。 彼女に電話するか、ずっと迷っている。昨日、散々に怒らせてしまった。仕事が
小説のようなよく分からないものを書いてみて、1からの創作はできないか。自分の思い出だったり自分の今の状況なりを書いた。 とにかく、毎日字数を決めて書く。校正は最後にまとめて。そういうことで書いていった。 校正していく中で、自分では考えて書いていたはずなのに、本当にこれは何なんだろう?というところもあったりする。ほんの数ヶ月前の自分は何を考えていたんだろう? 昔の日記を見返したときも、これは何を考えていたのか、と思うことがあるが、小説紛いのものの方がその感覚が強い。という
朝、1,000字書く、ということをやっている。調べると、文庫の小説がおよそ120,000字みたいなので、120日、まあ、4ヶ月で小説になる計算。 ところで、千葉先生のnoteによれば、原稿の8割程度が文字で埋まるようで、校正すると増えるから、初稿はもっと少なくてもいい、という話を書かれていた。 それを踏まえると、96,000文字であればとりあえず一冊になる、という計算になる。とりあえず、それはクリアしたので、ここから校正したら、完成した、と言ってもいいのかもしれない。
しばらく、YouTubeで山の遭難や洞窟探検のそうな事故の動画を見てました。一寸先は闇、というのがよく当てはまる、死と隣り合わせの世界なのだと痛感します。自然というのは人智を超えていて、その中に抱かれて、人間がなすすべなく翻弄されるのは、なかなか痛ましさがあります。 事故の原因として、多くは「慢心」や「準備不足」です。リスクを軽視してしまう、そもそもそうしたリスクを感じ取れない経験がない、そうしたことが言われています。 ここでのリスクは危険と呼ぶべきもので、何かしら、危険
アイドルのライブでは、フロアでファンが踊ったり騒いだりするわけだけど、そうした音や動きも音楽やダンスである、ということもできる。 そもそも、音楽やダンスは模様のようなところがある。コードなりリズムパターンなり音韻なり振付なり、ある程度、規則的になっていて、その規則がリズムをなしているとも言えます(この言い振りは、『センスの哲学』を意識しています)。歌詞で考えると、意味ではなく、単なる音の羅列としてのおもしろさを考える、というところでしょうか。 交差点で聞こえるか聞こえない
東北産の無料ライブに行った。ひたすらに暑かった。暑過ぎて、どうかなりそう。 ミクロとマクロを行き来する、そのことをどう考えるのか、というのがある。マクロというのは構造。ミクロというのはどこか細かい点に対するこだわりなのだと思う。 例えば、アイドルが踊っている。踊りを構造的に見れば、大きなパートに分かれている。そもそもアイドルの振りはシンメトリーを基本としている。そういうところに目が行く。シンメトリーは西洋のダンスにおける基本的な振り付けの要素だった。足跡がシンメトリーにな
マネジメントの本を少し読んでみて、おそらく任せることがキーワードになっている。任せることは、自分でやるのではなく、誰かにどうやってさせるのか、なので、その指示の出し方なり、指示するものなりを気にする必要がある。迷わずに出来るように、やり過ぎないように、ある程度の枠を設ける。その中でどのようにやるかは、自由にさせる。有限にすること。 進捗を確認することで、有限な枠の中を泳いでいるか確かめる。ドッグランのような枠を考える。その中で走り回ってもらう。 とにかく、枠を定めて、自分
何かを頑張ることにより何か成果を得ようとする。努力することによって何か対価があるような感じがする。まあ、そういう投下資本回収期待のようなものがある。コスパ思考なのかもしれない。 僕はむしろ努力は頑張るというよりは何かしらを続けることだと思っている。頑張るというのは一時的なところがある。波があるから頑張っている状態が生まれる。そうではなく、常に続けること。やることについて波を作らない。むしろルーティンにしてしまう。習慣的に何かを行うこと、それが努力なのだと思う。 とにかく何
「ねえ、ドッキリ動画のネタ考えてよ」 アイディアを考える。それは、0から1にする「発見」をする努力ではありません。知っていることを組み合わせることで、アイディアは生まれます。その方法について、考えていきましょう。 まず、全体の流れを説明しましょう。アイディアの見つけ方の大きな流れは、 というものです。どんなアイディアが欲しいのか、はブランドを作る話にもなりますので、割愛しますが、かわいいのがいいとか、人を傷つけるのはダメ、とかそういうネタの方向性を先に決めておく、という
ドッキリ動画をバーッとみて、こういう構造になっている、という事を考えていた。その構造に合わせて作ると、ドッキリの典型的な構造になる。 典型的な構造を作っていって、そこから少し離れた形も考えてみる。そうすると、ちょっと違う形のやり方を考えることもできる。つまり、典型から離れることも考えられるんだと思う。 その形は、実は守破離の構造であって、「盛り」の話ととても似ている。 ものづくり的に、構造からはみ出ないように差異を生み出す。いかにして、構造の中で遊ぶのか。それが、「盛り
スマートノートは日記的に日々書いていってネタが溜まっていく、というやつですけれど、これの形式をネタ帳に使ってみました。 右側には言語を、左側には図を。とりあえず、それくらいのノリで書いてみているのですが、いや、これ書きやすい。ぐちゃぐちゃ書ける。 ノートの書き方は、そのまま思考に繋がりますが、こうして書いてみることで、いろいろ思考は発散していくところと、思考が深堀できるところと。おもしろい。 特に、左側の、イラストの部分がいろいろ使える。絵をかくのもできるし、マインドマ
あっぺんだんのことを書こうとして、いろいろざーっと書いた後に、批判的に校正をしてみている。その中で、矛盾を直してやろうとしたら、ぐちゃぐちゃとしていく、話の流れが完全に途切れていってしまる。 もはや書き直した方がいい感じがするし、その方がもう一度ちゃんとしたものになるのかもしれない。難しい。 概念を考え直さないといけないと思う。ちゃんと書いていく事は難しい。考え直す、というか、行ったり来たりが続くような感じがする。
メッセージカードに、小説的に文章を書いた。その文章が、「よく分からない」という感想だったので、ちょっと残念な感じがする。 でも、そもそも、小説はよく分からないし。 大学の頃くらいから、小説なんて、他人の妄想読んで何が楽しいんだか、という斜に構えた感じでいた。のに、星新一とか村山由佳とか読んでいたわけだし、マンガやアニメもずいぶん見たので、妄想の中の妄想をかじりまくっていたわけです。 それでも、小説は主題のない、よく分からないもの、というのはなんとなく変わらないイメージで