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雨の初めのひとしずく

夜遅く、歩きながらなんとなく伸ばしてみた左手が霧に触ったような気がした。
おやっと思い、気を集中させると、羽織った薄い綿のジャンバーの両肩あたりから、微かな音が、八分音符と休符を交互になぞるように聞こえてきた。そしてついにポツリとひとしずく顔に触れて、しばらく休んでいた雨がまた降り出してきた。

降り出す雨の最初のひとしずく。
たいていはいきなりポツンと1滴を感じ、すぐにポツポツと続くことが多い。こんな微かな前奏から始まったのは久しぶりで、山の雨を思い出さずにいられない。

山での雨の訪れは、その展開が急速だ。だが稜線上でも森林帯でも、必ずといっていいほど静かな前奏がある。それに聴きほれていては山では後がタイヘンになることがあるのだが、霧の中の匂い、風の向きや強さ、沢音の変わりよう、そして肌に感じる微妙な温度変化などを経験的に判断し、身構えたり逆に楽しんだりする。山では人も動物になっている。

単独行のテントの中で聞く雨の音は、ことさらさびしい。
3日も4日も人と話すこともなく稜線を伝う中で、雨の夜は厳しい孤独が訪れる。
覚悟の上とはいいながら、深い後悔や強い自責の念が容赦なく襲う。
たった一人のテントの中で、リュックザックに放り込んでいた文庫本を取り出して読む気にもならないのだ。そして下界が、人が、普通の生活が恋しくてならない。明日は下ろう、と痛切に思う。

   山を想えば人を想い  人を想えば山を想う  (百瀬慎太郎)

彫刻家で、また山の絵や文をよくした加藤泰三という人に『霧の山稜』という画文集がある。
そのなかの「夜雨」で、次のように綴っている。
 
『雨になったのは直ぐに判った。
その最初の一滴が、天幕の屋根に打(ぶ)つかった時、ぼくは直ぐに目覚め      た。
暗闇の中で目を開いていた。

屋根は海綿のように、水を吸った。
重く弛んでその上に、尚滝のように雨は注いだ。
天幕と大地が作る、丁度、横わった三角筒の空間は忽(たちま)ち湿った。
空気は霧のように、僕の額に絡まった。
それを僕は深く、静かに吸っていた。

夜半の天幕に降る雨は、僕の肺を濡していた。
暁には皮膚も濡すであろう。』

 (天幕とはテントのこと。また、三角筒の筒の字は、原文では「土」偏に「壽」と書いてトウと読むのだが、IMEパッドを開いてもその字が見つからないため、やむを得ず私が勝手に同じような意味となる筒にした。今テントはドーム型がほとんどだが、かっては三角柱を横にした屋根型ばかりであった)

昔のテントは布張りである。雨を吸い込むと屋根など重く垂れ下がってくる。
先日、新しくテントを購入したいという人にくっついて行き、スポーツ店を見て回った。
そしてその大きな変わりようを改めて確認してきた。
私の持ってる20年以上も前のテントはナイロン地である。ポールやペグも鉄製だ。今はテント地も部品も違う。2、3人用でもわずか3キロあまりの軽量さだ。私の物の半分以下である。
まして、上の詩文が書かれたのは戦前である(この本は明文堂から昭和16年に刊行されている)。重い重い荷を背負って、それでも山に出かけていく。山に分け入らずにはいられないものがあるからだ。
それは今でも変わらない。道具の変わりようは隔世の感があり、山の尾根道や岩壁のルートも整備され大きく違ってきていても、人の心はそう違わない。

昔から、山を行く者、岩を攀じる人に、文に優れた人たちが多い(どのジャンルでも秀でた人はそうであろうが)。そして珠玉の言葉や文が数多く遺されている。山そのもののすばらしさと、そこに向かう人間たちのすばらしさ。
私はそうした山の本や写真集などを自分の宝物として本棚に並べ、毎日のように手で撫で触っている。『霧の山稜』もそのひとつである。

加藤泰三は昭和19年、ニューギニアの小さな島で戦死した。その公報が家族のもとにもたらされたのは4年経ってのことだという。
33歳での無念の死である。遺骨は今も帰ってこない。

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