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『小春日和』そして『老いること』

 お昼前から空を覆いだした薄雲が次第にその厚さを増し、夕方には雨になるかもしれないような今日の天気である。昨日はあんなにも爽やかに晴れ上がった、小春日和のようであったのに・・・と書いたところで、ふいに私のパソコンを打つ手が止まってしまった。
 小春日和という言葉、そして前日とはうって変わって雨の落ちそうなこの天気に、もうずいぶんと昔になってしまうが、同じような書き出しで始まった自分の文章がどこかにあったように思い、探し出した。
 時間をかけたがようやく、古いメモリースティックに入っていたのを見つけた。それは、400字詰めの原稿用紙に鉛筆で書いていたものを、当時のブログ用にとかなり短くまとめてPCに打ち込んだものである。そしてそこには、職人気質の父のことと、もう一つの文、老いた母の姿(実は二人とも私には養父母であるのだが)に大きな悲しみを覚えた私の思いも書かれてあった。
 今はそのブログも消え、元の原稿用紙も見つからない。このような場に以前のブログの文を再掲するのはどうか大いに迷ったが、まさに自分のnoteとして、ブログに載せたそのままをここに記録しておきたい。

『小春日和?!』

 昨日は明るく晴れ渡った、小春日和と言いたいような日だったが、今日は薄雲が広がり、夕方には小雨さえぱらつく、そぞろ寒さを感じる1日となった。まさしく変わりやすい秋の空である。
 やはり小春日和という言葉は、本来の冬の到来までとっておくべきなのだろう。
 秋も遠ざかり、木枯らしの1番か2番が通り抜けた頃に短期間続く穏やかな、暖かささえ覚える日和こそその語にふさわしいのだから。

 でも、つい小春などと言いたくなったのは、日中の暖かな日差しの中を散歩していてのことである。
 近所の100坪もない空き地には雑草が生えていて、モンシロチョウ、キチョウ、タテハチョウのなかまやシジミチョウなどが何羽も舞い、西洋タンポポさえ咲いていたのである。ロゼット状の葉は、まだ十分に艶やかな緑を保ち、黄色の花に白や黄や銀色のチョウが代わる代わる訪れていた。その光景と陽気がつい私の中から小春日和という言葉を誘い出し、そしてこんな句をも思い起こさせた。

     父を恋ふ心小春の日に似たる (高浜虚子)

 そんな句がふと口をついて出てきたのも、もうすぐ父の23回忌で、私はそのために何年かぶりに父のねむる北海道へ行こうとしているからであろう。

 父は気性の激しい人だった。「最後の名人気質」と父を評する人もいる和建築の大工で、温泉旅館の数寄屋造りの別部屋などをまかされることもあった。
 真っ正直で喧嘩っ早く、金銭には恬淡で、それがため周囲は、特に母は、幾つもの苦労を重ねることが多かった。
満足に小学校も出ていなかったが、知識欲は旺盛で、死の直前まで本を読みふけっていた。豊富な実体験と読書から得た知識は驚くほど多方面に渡っている。
 その父が、いつも私に言ってたのは、「威張ってるヤツ、強いヤツとは死ぬ気でけんかしろ。いつも弱い立場のものに付け」であった。

 そんな父に色々苦労させられた気丈な母も、今、すっかり老いた。
 小学校の教師を10年で辞め、華道と茶道に精魂傾けて生きてきた母は、今は父が好きだった野の花を摘んで茶花に活け、お茶をたてて楽しんでいるという。

    小春日の母の心に父住める (深見けん二)

 明日、私は母のいる北海道へ行く。そこはもう冬になっているに違いない。
 父の、そして私の次男がねむる地を詣でるとき、小春日和であるだろうか。

『老いること』

 北海道・函館から昨夜遅く帰京した。
 本当にあっという間の4日間であった。

 滞在中、半日だけ道南を母とともに弟が車で回ってくれたほかは、毎日、日中は父と私の次男の冥るお墓の前に立ち、夜は弟と家で酒を酌み交わしていた。
 函館を発つ日を除き、願いどおりの"小春日和"の墓参であった。また久しぶりの函館の町についても、江差追分で知られる江差という小さな港町を訪れた印象についても、さらにはまだまだ見事な紅葉を保っていてくれた南北海道の原野の風景のことについても、思おうとすれば様々な感慨が胸いっぱいに押し寄せてくるのだが、それよりも、今、母のことを先ず書かないではいられない。老いた母の姿が重く大きく私の心を占めてしまうのである。

 母は今年87歳。さすがにゆっくりと慎重な足取りではあるが、実によく歩く。話をしていても少しもおかしなところはない。それどころか時折ジョークさえ交えることがある。
 しかし、『亡失』という、老いからくる抗い難い症状は、気丈で明晰な頭脳をもってしても容赦なく襲い、悲しいまでに母を、そして周囲を混乱させる。
 何より母を苦しめているのは孤独感である。
 連れ合いである私の父を亡くしてから23年。親はもちろん、母は5人いた兄弟姉妹すべてに先立たれ、訪れあう親戚も、もう誰もいない。親しい友人、知人、またお茶とお花のお弟子さんも次々と世を去ったり離れたりして、心からの話し相手という人は本当に誰一人いないのである。加えて長く住んでいたところからはかなり遠くへ引っ越してきたので、近所にもまだ話し相手がみつからない。もともと一途にお茶と活け花に精進してきた母は気さくに人と交わるタイプではないので、おそらくなかなか相手は現れてくれないだろう。
 母の深い孤独の影はその姿に色濃く刻まれていた。

 私が母に見る哀しみは、その現実だけではない。老いへの強い抵抗の姿なのだ。
 母は自らが相当に老いたことを、むろんのこと知っている。だが、まだまだ自分はやれるしやらなくてはならないと、激しく葛藤しながら、現実には無惨な結果しかもたらされないことが許せないのである。
 茶道界、華道界で一応の地位を築いた母に、数え年で88歳となる米寿のお祝いが家元や色々な方面から寄せられたが、母は少しも喜ばない。それどころかそういう祝い事や品々を無視してしまうのである。
「こんな形ばかりのもの、何がいいの。本人が嬉しくもないことやってくれなくていい」とかたくなになってしまう。
 そして、もう絶対に無理な状況であるにもかかわらず、この引越した地でまた改めて看板を出し、お弟子さんをとりたい、と願ったりする。
 嫁であり、また古く長い弟子でもある弟の連れ合いに、お茶やお花の面でもう任しておかなければならないことも、なかなか譲ろうとしない。いろんな面での弟夫婦の困惑振りが察せられ、私自身の不甲斐なさも含め、胸が痛む。
 実は母はずっとこうだったのではない。もっともっとよく理解のある、状況を判断できる人であったのだ。だが、ここへきて急激に頑なな人に変わってきた。今年の春、母は東京の私のところにしばらくいたのだが、それからわずか半年も経たないのにずいぶん違ってきた。
 このような頑なさは、老いが進んできていることの現われなのである。
「老」への認識とそれ故の不安、恐れが、激しい抵抗の意識を育て上げ、様々な変化を母にもたらし始めている。それは、やりきれない孤独感が助長したとも言えよう。

 「老・病・死」は「生」を加えて人間の根源をなす「四苦」であるという。それへの徹底した認識と考察こそがゴータマ・シッダルダがブッダへの道を歩む出発点のひとつともなったことである。
人間に100パーセント訪れるこの四苦、むろんのこと私にもそう遠いことなんかではない。
これからの母への対処も含め、私自身の「老苦」に対してもどのように迎え撃つか、本気で考えていかねばならない時が来た。

 以上がかっての私の文である。今、これについて様々な思いが湧き上がってくるが、それはまたいつか書かねばと思う時が来るだろう。私を5歳から育ててくれた母も亡くなり、去年三回忌を行った。享年99歳であった。そして私は、情けないことに「老苦」を迎え撃つ覚悟からまだ遠い。

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