教職志望の方へー教職の要件について
「教職志望の方へー教員定数について①」で、明治生まれの祖母が(旧制の)女学校を出て小学校教員になったと書きましたが、補足があります。
母によれば、祖母は、女学校を卒業してから1年間明石で研修をした後、小学校教員になった、ということでした。
因みに祖父は、旧制中学を卒業後、姫路の師範学校を卒業して、小学校(戦時中は国民学校)や高等小学校で教員をしていました。戦後は中学校で教えていました。
祖父は、「師範学校が授業料無料だったから」と言っていました。師範学校では鉄棒でなかなか大車輪が出来なかったこと、ピアノの授業があったことを話してくれて、私たち姉妹が小学校の時に電子オルガンをプレゼントしてくれました。祖父はかなり弾けたようですが、自宅にピアノもオルガンもありませんでした。祖母からは紙鍵盤で練習した話を聞かされたので、自宅で祖父母は二人とも紙鍵盤だったのでしょう。
そもそも、戦前の旧制の女学校や旧制中学はかなり贅沢なものであったらしく、普通は小学校卒が珍しくなく、良くて高等小学校卒だったたと聞きました。
田舎では、学校に行かせようとすると、田圃一枚売らないといけなかったから、というのが、昔から母の言でした。
ちなみに、祖母が女学校に進学できたのは「末っ子でしかも不細工だったから、『嫁入り先がないかもしれない(親が死んだ後も生涯独身かもしれないから手に職をつけないと)』と親が言って、兄弟姉妹は誰も上の学校に行かなかったのに、自分だけ女学校に行かせてもらった」と言っていました。
不思議なことに、手に職があったために嫁入り先ができ、祖母は祖父と共稼ぎのため、嫁入り先で舅姑が亡くなるまで料理をしたことがありませんでした。
ともあれ、旧制中学や女学校は、戦後、男女半数ずつを交換して、それぞれ高等学校になりました。大阪府立で知っている所では、住吉中学と阿倍野女学校、天王寺中学と夕陽丘女学校、三国丘中学と泉陽女学校、といった具合です。これらの学校は全て高等学校になりました。
ですので、ある方がnoteに書いていらしたように、高卒でじゅうぶん小学校で教えられる、というのは、極論ではありますが、昔の旧制中学や女子校ぐらいのレベルであれば、確かにOKだったわけです。
別に昔に帰れ、と言いたいわけではありません。
ただ、昔も寺子屋や藩校の時代から紆余曲折があって、師範学校や女学校後一年の研修などという制度になったわけですから、安直に社会人講師に飛びつくのではなく、過去の経緯や歴史に学ぶ必要があると思うのです。
教員は確かにOJT(オンザジョブトレーニング)の世界ではありますが、全く教職を知らずに飛び込むのは無謀ではないでしょうか。