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人の気持ちはわからない、だからいい。

「人の気持ちがわかる」

そう思って生きてきました。無意識に、息を吸うように、空気も誰かの感情も全部感じ取って、それを全身で受け止めて、その場に適した自分に化けて生きることは、もはや何も難しいことではありませんでした。

でも、最近ふと思ったのです。

「わたし、人の気持ちはわからない」と。

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「あの人、今こう思っているかな?」や「その気持ち、わかるな〜!」など、人の気持ちを「想像」したり、人の気持ちに「共感」はしていたかもしれません。でも、それはあくまで「わたしが思っている」だけであって、相手の気持ちがわかっているかと言われたら、それは違うと思うんです。

ここをきちんと区別できている方はどれくらいいるのでしょうか。少なくともわたしは意外と曖昧になっていたかもなあと。

以前読んだ本の中で、こんな一節がありました。

世界は、「自分が責任をもって守るべき領域」「他人が責任をもって守るべき領域」の二つに、大きく分けることができる。たとえば、あなたの心(思考)や身体、生活、人生などは、あなたが責任をもって守るべきものだ。もちろん、人は一人では生きていけないから、他人の影響を受けたり、他人の力を借りたりすることはあるけど、必要以上に他人を立ち入られせたり、責任やコントロール権を他人に丸投げしたり渡したりしてはいけない。
一方、家族や友人など、どれほど親しい間柄であっても、他人の心や身体、生活、人生などは、その人が責任をもって守るべきものなのだ。そこにあなたが必要以上に立ち入ったり、責任やコントロール権を背負い込んだり奪ったりしてはいけない。

NOを言える人になる/鈴木裕介

筆者は、他人の領域と自分の領域を超える行為を「ラインオーバー」と呼んでいます。そして、世の中には、この境界線が曖昧な人、境界線を引くのが苦手な人、他人からのラインオーバーに気づかない人、ラインオーバーされても拒否できない人が少なくないと。

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もちろん育った環境も大いに関係していると思います。親の要求だけを一方的に押し付けられたり、ラインオーバーされ続ける環境で暮らしをしていると、守るべき自分の境界線がわからなくなってしまうのは当然だと思います。もちろん家庭環境とは関係なく、単に「NO」と言うのが苦手な人、人に嫌われることを恐れすぎる性格のせいでずるずると他人がラインオーバーしてくるのを許してしまう人もいるかもしれませんよね。

そうなると、

・他人(社会)が決めた「〜は常識」「〜は当たり前」「〜するべき」といったルールを絶対に守るべきものだと考えてしまう。
・他人(社会)からの評価を受けて、「自分はダメな人間」と思うようになってしまう。
・他人(社会)から無茶な要求や不公平な取引を持ちかけられたとき、対抗することができず受け入れいてしまう。

NOを言える人になる/鈴木裕介/p27

とまあ、ここまでは「ふんふん、そうだよな〜」と思いながら読んでいたのですが、次の一文が個人的にはヒット賞でした。

一方で、ラインオーバーされやすい人は、ラインオーバーしやすい人でもある。そもそも境界線があいまいだったり、境界線を意識できていなかったりするゆえ、誰かにラインオーバーされた怒りやイライラを、無意識のうちに、誰か別の境界線を侵害することで解消しようとしてしまうのだ。

NOを言える人になる/鈴木裕介/p28

おお。これは、痛いところをつかれたきがします。
わたしは「良かれと思って」という言葉を盾にあれやこれやを言ってこられる方がとっても苦手だし、大義や理想を掲げて自分の領域に人を巻き込んでくる方も好きではないのです…。(全ての場合に当てはまるわけじゃないけど、こういう場面に出くわした時には、往々にして「不快」な感覚が残る…。)あなたの過去のコンプレックスや自己肯定感の低さを埋めるために、わたしの領域を使ったり、勝手に立ち入ったりしないでいただきたい、と。🙏

でもそれは決して他人事ではなく、「人の気持ちを勝手に想像する」とか「言ってもいない言葉の裏を読む」こととちょっと似ていると思っていまして。わたしもそんなことされたら嫌なのに、「人の気持ちがわかる」とどこかで思い込んでいたときは、「他人の思考(=他人の領域)」に侵入してしまっていたのではないかと。特に自分と親しい関係にある人であればなおらさら。

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誰しも自分が発していない言葉の裏を読まれたりすることは嫌だと思うし、土足で自分の領域に入ってこられて、求めていないアドバイスをされることも嫌だと思うのです。わたしはそれが「嫌」なので、ならば自分も同じことをしていないか、冷静になって考えてみた方がいいと思ったのです。例え自分にとって身近な間柄であっても、わたしにはその人の領域に勝手に土足で立ち入る権利はないのです。ましてや思い通りにならないことで不機嫌になるなんて、お門違いにも程があります。

そんなことを考えていると、そもそも人の気持ちなんてこちらが考えても分からないという単純明快な答えに辿り着きました(!?)
もちろん他人の領域を尊重するために「想像」や「共感」はするけど、それはあくまで「自分の領域」でおこない、その結果として他者に何かしらの影響を与えることができたら、それは嬉しいことですよね。逆に良い関係性が築けなかったとしても、それはもう「しょうがない」ことだなとも思うし、そんなことのほうが世の中多いのではないでしょうか。

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わたしは自分を満たすことができなければ他人へよい影響を与えることはできないと思っているので、どんなときでも「自分を満たすこと」の優先度がとても高いのですが、幼い頃から「人の気持ちを考えて行動しよう」や「誰かの期待に応えるために頑張らないと」って無意識に刷り込まれ、それを忠実に守ろうと思ってしまったからか、いつしか心の歯車が狂ってしまったのかもしれません。

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そして少し前から、あえて意識的に「人の気持ちはわからない」という前提で過ごしています。すると、過剰に相手のことを気遣うこともなくなり、自分の気持ちや考え方をより明確にすることができるようになった気がしています。そして、相手の世界は相手の世界で尊重する。そこに共感を示すことはあっても、こちらが無理に立ち入ったり、自分の気持ちを曲げてまで合わせることもない。もし気持ちを確かめたいことがあったら、そこに変な期待や感情は入れ込まず、きちんと対等に話せる言葉やマインドを身に付けてから扉をノックすること。おお、なんだかとってもビューティフルな素敵な世界!✨(急に)

というわけで、「人の気持ちがわかる(考えることができる)」前提から、「人の気持ちは分からない」という前提にシフトしてみたら、意外と見えてくる世界が変わったので、人間って大変興味深いです。

「人の気持ちは分からない」って表面的な言葉だけで聞いたら、なんだか冷淡そう…って思うのが当然だと思いますが、こうやって考えたら悪くないかも…!?
ただし、その言葉の裏には、「人の気持ちはわからない、(でも、分からないからこそあなたの世界を尊重しますよ。わたしは私の世界を大切にして生きていますので、お互い良い形で影響し合うことができたらたらいいですね。)」です(笑)

なかなか伝わらない気持ちを、今日も長々と懲りずに書いております。
みなさまが穏やかに過ごせますように🌷


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