実った恋が本物の恋?
今、恋をしていますか?
と聞かれて、「はい」と答えられる人は幸せだなと羨ましく思います。
でも、Q. 恋を「知って」いますか?という問いなら、多くの人が「はい」と答えるのではないでしょうか?
私も、それなら「Yes」です。
好きな人がいて、恋をしている時間は、どうして何もかも違って見えてくるんでしょうね。
面倒くさかった学校も、好きな人に会える場所に変わるし、生活にハリが出ますよね。
恋をすると、すべてが薔薇色に見え…とまでは言いませんが、それまで印象に残らなかった景色でさえも、モノクロの世界から急に色鮮やかに変わってしまうような感覚。
私も中学生の時の、初恋の先輩のリュックの色とか、今も目に浮かびます。
告白する勇気もなく、話すこともないまま終わってしまった初恋ですが……。
それからも私は恋をして、実った恋も実らなかった恋もあるわけですが、成就しなかった恋、別れてしまった恋は、本物の恋ではなかったのかというと、そうではないな、と思うのです。
(恋と愛については、似て非なるものだと思うので、またこちらもいつか書けたらなと思います。)
その時の恋する気持ちは本物で、その時の私がいて今に繋がっている。
その人に出会わなければ、好きにならなければ、知らなかった気持ちがたくさんある。
たとえ相手と結ばれなくても。悲しい結末だったとしても。
その恋があったからこそ、痛みを知って、失敗したからこそ、そこを乗り越えて、少し成長した。
そんな風に思い出せる人がいたとしたら、やっぱりそれは本物の恋だったのだと思います。
「胸の泉に」塔 和子の詩
恋について考えてしまったのは、たまたま手にした「通勤電車で読む詩集」(編著: 小池昌代)に、とても心に刺さった一篇があったからです。
それは、塔和子の「胸の泉に」という詩です。
かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
という書き出しで始まるこの詩。
この2行で、私は引き込まれました。
かかわったからこその、「甘い思い」や「さびしい思い」。
塔和子が詩に書いたのは、恋だけではなく、親子のかかわりや友情も、あらゆる人とのかかわりについてです。
人とかかわることによって知る、様々な思いについて詩人はこう書いています。
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
「生を綴る」……生きることを、こんな風な言葉で表現するなんて、と、書かれた言葉の一つ一つが胸に響きました。
そして、私が「今までの実らなかった恋ですら、私の人生を綴ってくれたんだ」と強烈に感じたのは、続くフレーズを読んで心に刺さったからです。
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
かかわらなければ、“路傍の人”なんです。
これが、私には一番刺さりました。
かかわり、というのは、何も相手と親しくなったとかでないと思うのです。
何なら話をしたこともほとんどなくても、好きになった人なら、本当に好きになって、恋をした相手なら、自分の心に、自分の人生に深くかかわった人。
今、失恋して苦しんでいる人にも、片思いの人にも、あるいは、実らなかった恋は本物ではなかったんだと心の奥底に封印している人にも、伝えたいです。
好きになったからこそ、その人はあなたの人生の「路傍の人」ではなくなったんです。
ぜひ塔和子の「胸の泉に」を、通して読んでみてください。
そして、かかわることなく路傍の人となることを、和子がどのように表現してこの詩を結ぶか、味わってほしいです。
詩人がなぜこの詩に「胸の泉に」というタイトルをつけたのかがよくわかります。
シェイクスピアの言葉
ここでまたまた登場するシェイクスピアですが、それこそ私の人生に深く影響を与えた「好きな人」なので(笑) お許しください。
シェイクスピアはよく、人生を舞台に例え、人間を役者に例えています。
シェイクスピアの作品には、そういう台詞が数多く出てきます。
有名な台詞の1つが、
人はみな男も女も役者にすぎない。
それぞれに登場があり、退場がある
というもの。
(松岡和子訳「お気に召すまま」より)
つまり、あなたが好きになった人は、あなたの人生という舞台に、ばっちり登場しているのです。
たとえ片思いであっても、主人公の、大好きな人として。
たとえ実らなかったとしても、主人公の忘れられない人として。
たとえ、同じシーンを演じて、台詞を交わすことがなかったとしても。
あなたの人生は、あなたが主役の舞台だからです。
そしてもう1つ、恋愛について私の心を震わせた名文を「どくとるマンボウ青春記」よりご紹介。
この文章を読んだとき、片思いを経験していた私は、涙が止まらなかったのを覚えています。
人間にとってもっとも貴重なひとつの心の持ち方、それが愛であることは間違いなかろう。
もう一つつけ加えれば、愛し愛されるということはたしかに素晴らしいことではあるが、
自己を高めてくれるものはあくまでも
能動的な愛だけである。
たとえ、それが完璧な片思いであろうとも。