森から来て、砂漠へと退く人々
きっかけは第96回アカデミー賞のセレモニーだ。授賞式で助演男優賞のロバート・ダウニー Jr と主演女優賞のエマ・ストーンが、壇上でベトナム生まれのキー・ホイ・クァンと、マレーシア生まれのミシェル・ヨーを、それぞれに無視したと話題になっていた。個人的なことを言えば、アイアンマンの依代に思い入れはない。けれどエマ・ストーンは大好き。だから嫌な気分になる。
しばらくツイートを追いかけた。プレゼンテーターだったミショエル・ヨーが「オスカー像をエマの親友のジェニファー・ローレンスから渡して欲しいと思って混乱させてゴメン」みたいなツイートをする。ああ、そういうことかと少し落ち着く。アイアンマンのことは、その後とくにツイートを見ない。彼に無視されたキー・ホイ・クァンのほうは、フォローするような投稿が続く。なんでもアナ・デル・アルマスが彼の大ファンで、ふたりが大はしゃぎしている投稿がある。これは微笑ましい。アナの故郷キューバでは、キーが小さいころに出演した『グーニーズ』が大人気、アナもファンだったという。
ぼくのほうは、そんなアナ・デル・アルマスの大ファンだから、そういうのを見て少し気持ちが楽になる。けれど、どうもすっきりしない。ネットでもそうだけど、知り合いたちも「無意識の差別」とか「空気のように無視されるつらさ」を批判的に語る。よくわかる。けれど、よくわからないのがぼくらの直面している居心地の悪さ。何なのか。それってレイシズムなのか。レイシストを吊し上げれば話が済むのか。
そんなとき、ふと目に入ったのが次の英語のツイートだ。ぼくはこれを見て、ああそういうことかと思った。植芝盛平のものらしいが、原典にあたる手間を省いて、そのまま引用しておく。
日本語にすれば、こんな感じだろうか。
受賞の名誉を授かるわけだから、ある意味で「神から祝福されようとするとき」(When God starts blessing you)でもある。そこでは「自我」に注意しなければならない。動詞 mind は「精神の働きを向ける」という意味。こういうとき、たいていの人は舞い上がってしまいがち。だから舞い上がった「自我」(ego)には要注意ということ。まあ、オスカー像の授与は神の業ではない。人がなせるものだし、世界が注目しているとしても、せいぜいアメリカ・ローカルの儀式にすぎない。だから、そんなに舞い上がることでもない。そう思えばよいのかもしれない。
けれども、今回のちょっとした騒動に関して、ぼくがとりわけ腑に落ちたのは「集団でいるとき、振る舞いを気にしなさい」(When you are with a group, mind your behavior.)のくだりだ。
ロバート・ダウニー Jr とエマ・ストーンのふたりは、アカデミー賞の授賞式でそれぞれに受賞の栄誉を受け取るとき、「集団」(group)のなかにいる。だから「振る舞い」(behavior)を気にしなければならない。授賞式のような集団的な儀礼において、振る舞い方に「気をつかう」(mind)ことが必要だというのだが、それは一体どうしてか。
そういえば、2022年にはウィル・スミスの「ビンタ事件」なんてのもあった。あれも、集団的な儀礼における「振る舞い」への配慮があれば起きなかったかもしれない。問題は、儀礼や振る舞いへの配慮が、徐々に後退しているように見えること。ならば人々は、どこに向かって後退しているのか。おそらくそれは、あの「森」へと退いているのではないのだろうか。
その「森」を、人がかつてホモ・モビリタスとして彷徨っていたころの「森」だとしよう。そしてあの定住革命がおこる。ぼくらは彷徨うことを突然に止め、集落(civis)に定住する。同時に「礼法」(civilitas)が生まれる。彷徨っていたときとちがい、「集落・都市」(civis)で暮らすには、それまで距離のあった人と人のあいだが、近くなったときに生まれる。近くなった人と人の距離を調整する何かが必要になるのだ。
近くなった人と人との関係を、ああしよう、こうしようというのが「作法」(jus)だ。地縁も血縁もない人が、それでも同じ場所で関係することになるのが都市だとすれば、その小さな場所にはどうしたって振る舞うときに「こうするべき」(jus)というものが必要になる。だから「作法」は頭初から「都市的な作法」(jus civile)として生まれる。あるいは、「作法」(jus)のおかげで「都市」(civis)が成立したのだろう。
ところがだ。いつの間にかぼくらは、都市生活の技術的なインフラを「文明」(civiltas)として当たり前に受け入れ、その本来の意味であった「礼法」(civiltas)を忘れてゆく。都市(civis)はまるでかつての「森」(silva)のようなものとなり、「礼法」を失った人々は、その「振る舞い」を「野蛮なもの」(selvaggio)へと頽落させる。
いったい何が起こったのか。何が起こるのか。それはたとえば、公的な場所なのに冗談が言いたい司会者は個人攻撃で笑いをとりにゆき、腹が立てた参加者は壇上に登って司会者にビンタを喰らわせること。あるいは待望の壇上に呼ばれた嬉しさから、肌の色の違う(と思われる)プレゼンテーターと目を合わせようとせずに無視すると、ただオスカーだけを受け取り、同じ肌と(思われる)知り合いと喜びを分かち合うハグをしてしまうこと。
人々は、この振る舞いにレイシズムを感じ取り、同じように少し舞い上がり気味のエマ・ストーンの振る舞いにも避難を浴びせる。ミシェル・ヨーが、友人からオスカーを受け取れるようとした小さな親切で、エマの動きを混乱させ、そこに無意識のレイシズムが読み取られることになるのだが、そうしたことのすべてには、あの礼節や礼法、あるいは礼儀というのが欠如してるのではあるまいか。
礼節の欠如といえば、「#ceasefire 」のバッチはどうなのか。それは欠如なのか。むしろそれこそが「文明的な」(civile)なものではなかったのだろうか。たとえ少数であろうと、人類ということを考えて、誰もが一緒に暮らしているこの地球というところからみれば、じつに「礼にかなった」(civile)ことではないのだろうか。ところが、シオニズムによるジェノサイド批判のコメントが、涙の賛同と、あの冷淡な無視との間に引き裂かれたことは、どうとらえればよいのか。あの居心地の悪さは、今まさに、まさに「礼にかなった」ことが問題になっており、それは「文明的である」ことの問題ということではなかったのか。
わずかな煙なのかもしれない。けれど、わずかな煙をほうっておけば大きな火災となる。わずかな穴から堤防も決壊する。ぼくらはいつだって、煙が立ち、水が漏れているところに警戒しなければならない。それは、たかが小さなコトなのだ。けれども、その「事(コト)」の小さな「言葉(コトバ)」から、ぼくらの暮らしは成り立っている。
ぼくらの集住の暮らしを「文明」(civiltà)と呼ぶならば、そこで生きるための「礼法」(civiltà)に輪郭を与えてるのものは、ぼくらの「コトバ」だ。その「言葉」が、あるべき「理念」( idea)ではなくただ「感覚・意味」(senso)を語るとき、そして、「理念」によって時間を分節化していた「儀礼」(rito)が、理念を愛でる「芸事」(arte)から不平不満を解消するためのだけの「武力」(arma)へと頽落するとき、ぼくらは「文明」(civiltà)はもちろん「人間」(umanità)がずたずたに破壊された場所へと退いてゆく。
そこは帰るべき森ですらない。オッペンハイマーが夢想して恐れた場所にして、神の怪獣たるゴジラよりもずっと即物的にして慈悲のない連鎖反応の炎が焼き尽くす場所、あの砂漠と呼ばれる場所ではないのだろうか。