美カレー黴(びかれかび) - カレー回文の物語 -
鈍色の雲が空一面を覆い、太陽の姿を隠したある水曜日の午後。静寂に包まれた我が家の厨房には、時間が止まったかのような感覚が漂っていた。その静けさを僅かに破るのは、忘れ去られた寸胴鍋から微かに聞こえる軋む音だけ。その音は、まるで呼吸するかのように一定のリズムで耳に届く。
ふと視線を鍋に向けると、鍋肌がいつもの光沢を失い、一面に広がる白いまだら模様が目に飛び込んできた。その模様は、深海の珊瑚礁が放つ生命感あふれる美しさにも似ている。私はまるで磁石に引き寄せられるように、その鍋に近づいていった。
一週間の疲れを癒すために日曜日に作ったカレー。ガラムマサラの香ばしさ、ターメリックの地味だが欠かせない風味、コリアンダーの爽やかさ。それらが見事に調和したスパイスたっぷりのカレーの残りが、まだ鍋の中に眠っていることに初めて気がついた。忙しさにかまけて放置してしまったことへの罪悪感が、胸の奥で小さく疼く。
「これはもしや、黴だろうか?」
心の中で問いかけると同時に、なぜか興奮と好奇心が湧き上がってくる。普通なら嫌悪感を覚えるはずなのに、私の目に映るこの白いまだら模様は、いつもの黴とは何かが違っていた。
ゆっくりと息を整えながら、鍋の縁に手をかけ、その中を覗き込む。目の前に広がる光景は、言葉を失うほどに美しかった。純白から淡いグレー、深い緑から漆黒まで、無数の色彩が織り成す模様。それらはまるで宇宙の星雲や銀河のように、複雑で神秘的なパターンを描いていた。
細部に目を凝らすと、雪の結晶のように一つとして同じ形のものはない。それぞれが独自の形状と色彩を持ち、微細な繊維が交差し合っている。その緻密さは、まるで精巧な刺繍や織物のようだ。一つ一つの模様が集まって、巨大なモザイクアートを創り出している。
私は時間の感覚を失い、ただその美しさに見惚れていた。視界の端で時計の針が動く音が聞こえる気がしたが、それも次第に遠のいていく。鍋の中の小さな世界が、私の全てを包み込み、現実と非現実の境界が溶けていく。
「美しい……」
思わず口から漏れた言葉が、静かな空間に溶けて消える。指先をそっと伸ばし、その表面に近づける。触れてはいけない、壊してしまいそうな繊細さがそこにあった。しかし、どうしてもこの感覚を確かめたくて、指先でそっと表面をなぞる。
瞬間、微かな温かさと柔らかな感触が指先から全身に伝わり、心臓が高鳴る。それはまるで初めて愛する人の肌に触れたときのような、忘れられない感覚だった。黴がこれほどまでに美しく、そして生命感に満ち溢れているとは思わなかった。
視線をさらに近づけると、微細な繊維が光を反射し、小さな虹色の輝きを放っているのに気づく。その輝きは私の心を深く揺さぶり、胸の奥底から何かが込み上げてくる。
「これは、ただの黴なんかじゃない……」
心の中で強くそう思った。これは一つの世界であり、生命そのものなのだ。それぞれの黴が独自の役割を持ち、共に生き、共に進化している。一つの巨大なコミュニティが、私の目の前で息づいている。
カレーの香りと黴の微かな匂いが混ざり合い、私の嗅覚を刺激する。その香りはどこか懐かしく、そして新しい感覚をもたらす。目を閉じると、色とりどりの模様が瞼の裏に浮かび上がり、私をさらなる深淵へと誘う。
「美カレー黴、さかさから読んでもびかれかび……」
頭の中で回文がくるくると反芻する。言葉がリズムを持って心に響き、さらなる没入感を生み出す。カレーと黴、回文が織り成すこの不思議な世界に、私は完全に囚われていた。
時間が経つにつれ、外の世界の音や光は遠のき、私と鍋の中の世界だけが存在するように感じられる。心の中で何度も問いかける。
「もし、このままこの世界に溶け込むことができたなら……」
その考えが浮かぶと同時に、胸が高鳴り、呼吸が浅くなる。鍋の中の黴たちは、私を招き入れるかのように輝きを増している。
現実と幻想の狭間で、私は新たなインスピレーションを得た。この美しさを、誰かと共有したい。この感動を、言葉や形にして伝えたい。
しかし、それはまだ形にならない漠然とした想い。今はただ、この瞬間を味わい尽くしたい。
「Beauiful……」
声にならない呟きが、心の中で静かに響く。再び瞼を閉じ、全ての感覚を研ぎ澄ます。黴の持つ生命力、美しさ、そして未知なる世界への憧れ。それらが渦を巻いて、私の中で新たな物語を紡ぎ始める。
この鍋の中に広がる宇宙は、私だけのもの。でも、いつかこの感動を形にして、多くの人と共有できたなら。
ゆっくりと目を開けると、鍋の中の世界は相変わらず美しく輝いていた。心の中に芽生えた新たな探求心が、私を前へと駆り立てる。
「次は、何を見つけられるだろうか……」
未知なる領域への一歩を踏み出す決意とともに、私はその美しい世界からそっと目を離した。
「PALINDROMICAL - The stories of curry palindrome」は、カレー回文師 であるS.Nekoyamaが不定期に発行するZINEです。このZINEは、カレーに 関連する回文をテーマにしたストーリーを紹介しています。バックナンバー・最新など他のストーリーは以下のサイトからPDF版の購入が可能です。(PDF版は日本語・英語の両表記です。)
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