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来る甲斐あり見る甲斐あり山梨の桜 武田神社 19.04.05 13:55
武田神社はもともと武田信玄の躑躅ヶ崎館だった場所。
人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。で有名な館。どれだけ城を強固にしても人の心が離れてしまえばハイそれまでよ。のため、城としての守りの機能は極めて弱いものだった。それはイケイケで調子のいいときならそれでいいかもしれないけれども、信玄の死後家督を継いだ勝頼が長篠の戦いで信長、家康連合に一敗地にまみれた後はそんな悠長な事を言っていられなく成って、新しく築城した要害の新府城へと移っていきます。堅牢な城に移っても、結局石垣も堀も人が居てこその機能。家臣の造反離反で最後は残念なことに成ってしまうのですが。
武田家滅亡の後、江戸時代には甲州街道の要所である甲府には、甲府城が築かれ行政はそちらへ移り城下町も吸収されます。
明治になり、日清日露戦争後に武神軍神を祀ることが推奨され甲斐唯一の偉人武田信玄が担ぎ出され、大正になって武田神社の創建となります。
そんな武田神社は明日から(実際には今日から始まっていることになるらしい)信玄公祭りの準備で大わらわ。提灯が飾られやぐらが組まれいつもの落ち着いた武田神社とは別の顔。政治の信玄と戦の信玄とでも言ったところか?街全体が浮足立ってます。
堀にかかる赤い橋を渡り石段を上がり境内へ。
高低差が少なく、戦国時代にして平城っていうところがすごい。信玄さすが、先見の明があると言いたいところだけれども、先見すぎて息子がどれだけ苦労したことか。偉大な父ってのも正直困ったものだろうな。サラリーマンの息子であることを少なからず感謝するけれども、できればもう少し資産家のうちに生まれたかった気もしないではない。
神社は正直まだ新しいのでそんなに見どころはないのだけれども、ここに武田信玄が居たのかと思うといつも感動させられる。
ここに家臣を集め、ここで軍勢を整え、ここから調略の限りを尽くして、ここから各地に攻め入っていた。
どこかのどかな山梨から、戦国最強の軍団が出たなんて信じられない。長い江戸時代に天領ともなると、文化的にはそうなるのかな。
幕末に近藤勇がやらかしたのもわからないでもない。
しかし、武田の神社に手を合わせて何を願えというのだろうか?戦国最強も所詮1代限りの出来事。兵どもが夢の跡なのに。
神社の目の前に資料館とカフェの新しい商業施設ができていた。
この辺り、駅からも甲府城からも遠く、食に関しては決して栄えているとは言い難い状況。武田神社が観光の目玉なのだからなんとかしろよといつも思っていたのだけれども、やっと気がついたか・・・。正直メニューは大したことなかったけれども、だんだんこなれてくるといろいろアイデアが出るもの。これから素敵な施設になれば観光客としては嬉しい限りです。
でも、武田神社、正直桜はあまり本数がございません。
武田神社はこの辺り