1000日チャレンジ 916日目 「A LITTLE HISTORY OF SCIENCE」(若い読者のための科学史)CHAPTER 11 Where is the Centre of the Universe?
ゴールまで84日
★BMI:23.0
★「A LITTLE HISTORY OF SCIENCE」(Bynum, William著;Yale University Press;2012年)を原著で読み進める(全40章)
◎CHAPTER 11 Where is the Centre of the Universe?
★主な内容
古代の天文学者はアリストテレスも含めて、皆、宇宙の中心は地球であると信じていた。しかし、そこにある矛盾にも気づいていた。例えば、春分の日の恒星の位置が毎年少しずつ変わること、さらには、惑星(当時は太陽や月も惑星とみなされていた)の動きは、時に逆行していて、単純に地球の周りを廻っているということでは説明できないことなどである。後者については大きな問題であったが、地球の中心ではない部分を中心に回っていると考えることで、完全とは言えないものの、ある程度説明ができ、地球が中心であることを疑いはしなかった。
15世紀の終わりにポーランドで生まれたコペルニクスは、聖職者であったが、宇宙が好きで自作の観測施設と装置で天体の運行を観察し続けた。そして、彼は、惑星は太陽を中心に回っていて、地球もその一つだと考えることで、様々な矛盾が解消されることに気づいた。しかし、彼はすぐにそれを発表することはせず、30年にわたって観測を続けるとともに、他の天文学者が問題としたことや観測結果を自説で説明できるかを検証した。自説の公表を決意したコペルニクスは、1542年に大著『 天球の回転について』の執筆を終える。ただ彼には自身でこの本を出版する力は残っておらず、それを友人に託した。最終的に聖職者のアンドレアス・オジアンダーは、1543年にこの本を出版した。しかし、彼はこの本の内容が危険だと考え、コペルニクス本人には無断で、その序に「この本の内容は正しくはなく、単に過去の矛盾を説明するために考え付いたものだ」という文章を加えてしまった。そして、そこに署名が無かったため、読者はコペルニクス自身が書いたものととらえてしまう。そのことから、この著作はその後100年ほど、重要なものと捉えられなかった。
コペルニクスの説をさらに進めたのは、デンマークの貴族出身のティコ・ブラーエだった。彼は彗星や惑星の運行に関する多くの重要な発見を残した。そして、その助手であったヨハネス・ケプラーは、ブラーエの残したデータが地球を中心とする説を指示しないことに気がつくことになる。
ケプラーの著作には3つの法則が記述されている。すなわち、①惑星は完璧な 円ではなく楕円を描いて動いている、②惑星の速度は一定ではなく、惑星と太陽を結ぶ線が一定時間に描く面積が一定であること、③惑星が太陽の周りを一周するのにかかる時間と、太陽とその惑星の距離のあいだに特別な関係があること。この法則によって、太陽系の大きさと恒星の遠さには大きな差があるということを天文学者たちが理解することになった。
★単語
convince;確信させる、stargazer;天文学者、constellation;星座の位置、equinox;春分、accustomed;慣れた、priest;司祭、神父、invent;発明する、elaborate;詳しく述べる、consequence;結果、結論、immense;計り知れない
★フレーズ
be entitled to;~する資格がある
※ケプラーの法則;「J.ケプラーが T.ブラーエの惑星観測の結果から,地動説に基づいて導き出し,1609~19年に発表した3つの惑星運行法則。 (1) 惑星は太陽を1焦点とする楕円軌道を描いて公転する。 (2) 惑星と太陽を結ぶ直線は一つの惑星については一定の時間に一定の面積を描く。 (3) 任意の惑星の公転周期の2乗は太陽からの平均距離の3乗に比例する。これはのちに,ニュートンの万有引力発見につながる重要な数学的基礎となった。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より引用)
◎さずがにこの2人のことは知っていた。ただ、コペルニクスの著書がこんなに遠慮がちに出版されていたことは知らなかった。いずれにしても、書き残すことの大切さは、古代の哲学者もこの時代の科学者も、そして現代の科学者にとっても同じだと思った。
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