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暇つぶし、退屈凌ぎ
サークル終わりのファミレスで晩御飯を食べている時に聞いた、ある後輩の発言が僕の頭の中に引っ掛かっていた。
「中高一貫でそのまま大学に入るっていうレールが気づいたら目の前にあったので、一旦自分の人生がこれでいいのか振り返る時期があったんですよ」
その後輩曰く、今の学部学科とは全く違うことを勉強して、突拍子もない進路変更を企んだことがあるらしい。
なぜこの言葉が印象に残っていたのか。
それは、僕にも思い当たる節があったからだ。
僕が大学一年生の頃、世の中はコロナ禍真っ只中で、やりたい事、望む事がすべからく制限されていた。
大学の授業はオンラインになったり、自分が思い描いていたキャンパスライフの十分の一も満たさないような毎日に、飽き飽きしたし、嫌気がさしていた。
当時は料理系YouTuberの動画を見ることにハマっていたのと、昔から自炊が嫌いじゃなかったこともあって、「調理師の学校も面白そうだなぁ」なんて考えていたこともある。
今思えば、失笑の鼻息で飛んでいきそうな、くだらない思いつきである。
でも、そんな勘違いをしたことのある僕だったから、後輩の言葉が頭に残ったのだと思う。
最近、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本を読んだ。
できることなら、その後輩にも読んでほしいと、何度も思いながら読んだ。
意外にも「暇と退屈」というテーマは多くの哲学者によって長い間議論されているテーマらしい。
筆者は、「暇と退屈とは何か」というテーマを深掘りする段階で、多くの哲学者の主張や考えを引用してくる。
かつての哲学者たちに対して「それはないでしょ」とツッコんでみたり、「ここは割と鋭いこと言ってるよね」と取り上げてみたりを繰り返すことによって (本文はそんなゆるゆるな態度なわけではないけど)、筆者は「これまで人類が暇や退屈とどのように付き合ってきたのか」、「そこから暇や退屈とどのように向き合うべきか」を説いている。
細かい内容や説明は、これをもし読んでくれた後輩が著書を手に取ってくれることを願って省くが、本の中で「暇と退屈」について大きな結論が提示される。
人間は「暇と退屈」からは逃れられない。
でも暇と退屈の中で、たくさん考えて、考えて、考えることで、生活を楽しむことができる。
退屈は、退屈でなくなる。
本の中に出てくる言葉で、僕の好きな言葉がある。
「俺はいま自分のフィロソフィーをつくっているところだ」
筆者がアメリカ留学中に、現地の生徒に「あなたは仏教徒なのか、どういう考えを持っているんだ?」と聞かれた際に返した言葉だという。
フィロソフィーというのは、「自分はこう考えてるけど、君はどう思う?」と問いかけられるまで考えた証のようなものだと筆者は言う。
僕はまだフィロソフィーなるものはないけれど、これから先の人生で、僕なりのフィロソフィーを見つけられたらと思う。
少なくとも、この文章が誰かの「暇つぶし」と「退屈凌ぎ」になってくれたらと思う。