自分を自分ごととして生きる
高校の頃から、自分を嫌に客体化して生きてきた。言ってみれば、育成ゲームのような感じ。そうすれば、他者と接しているのは本当の自分が作った偽の自分であり、もう深く傷つくことはないと思ったからだ。
この頃から、好きなキャラクターや人物を、他者ではなく自分のなりたい像として設置し、色々な憧れの存在の真似を始めたように思う。それは自分に自信がなかったからだ。つまり、偽の自分を作る「本当の自分」の具体的な考えにすら自信がなかった。
私は何が好きで嫌いか判断するだけ。あとは全部、好きな存在の真似をするだけ。
でも今、それは違うんじゃないかと思う。
もっと自分は自分で生きてもいいんじゃないかと思う。
大好きなキャラクター達、憧れの人
みんな大好きで、尊敬できて、みんな他人だ。私は絶対にその人にはなれないし、私は私で同じくらい、魅力的になれるはずだ。
これが今、生まれ始めた新たな自分、のようなもの。
心の中の応援隊のような彼らから、良き隣人としての彼らへ。
それは完璧な存在なんていないということを、ようやく腹に据えた常識として消化できたからなのかもしれない。
いいかげん退屈なのだ
それに気づいてしまった。この生き方は、傷つかない以外にあまりいいことがない。自分でぶつからないから、失敗に真正面から向き合えなくて、成長できないんだ。私はずっと痛い高校生のままだ。
ちゃんと失敗しないから、プライドばかり高くなっていって、そのくせ虚無だ。
なんだかツマラナイ、もしこの先何十年もこの生き方をするなら、もっとつまらなくなる。
もう一度、心から悔しがりたいし、号泣したい、自分のことで。
偽の自分を通してでも結局傷ついてきたのだから、今、生の自分でぶつかって心から傷ついたとしても、もう大丈夫だと思う。何度でも立ち上がれる。これは確信している。
私はもう一度、自分で世界にぶつかってみたい。今、わくわくしている。