就職を控えた毒親育ちが思うこと
今更家族ぶられてもって感じなんだよな。
というのが、ここ最近ずっと私の心の中の、大声で叫びたい主張。
最近、親がすごく、やたらと、家族ぶってくる。
必要なものを聞いたり、将来について口を出したり。
定年近くなって、孤独を感じているのだろーか、しかし本当にそんな都合は私の知ったことではなく、
私はその仲良くしようと急に家族を演じるこの状況が、気持ち悪くてしょうがない。
小さい頃から 暴言、「どうせ無理」、蔑視、舌打ち、「誰の金で〜」「金が無い、お前がいなければ〜」の繰り返し。そんな環境で、大好きな家族だと思え・慕え・愛せと言う方が無理な話だ。
愛されなければ、愛そうとは思えない。
毒親育ちで親を見放す人と見放さない人の違いは、幼少期にカケラでも親の愛を感じたかどうかだと思う。そのどちらも、不幸だと思う。
私は幼稚園の頃にはもう、父を軽蔑していた。
やがて母のことも、軽蔑するようになった。
祖母も祖父も、姉も弟も、本当はみんな嫌い。みんなみんな嫌い。
エリート至上主義のこの家で、何度も何度も馬鹿にされた。見た目も喋り方も、学業から運動の成績まで。具体的な行動による邪魔も入った。
物を盗まれたり、切り刻まれたり、執拗な暴言で、強迫観念による障害も患った(今も患っているが、解決の糸口は見えない)。
いつかこの家を出て行ってやるんだ、そして消息不明になって、2度と帰ってこない。そう心に誓って死ぬ気で勉強した。
だから最近の、家族ごっこなムーブに、ストレスがじわじわと溜まってる。
親は未熟な人間だ。もちろん完璧な人間なんていないのは承知の上で、しかし私は、私の親は欠けている人間だと思う。
一つは知性(知能ではなく)。もう一つは品性。そして最後に、自分の都合を超えた他人を思いやる気持ち。
私は親から、「子供から愛される・感謝される」ことを求めない、下心なしの愛を感じたことがない。
これがどれだけ影響を与えるのか、それは同じ状況になった人にしか分からないだろう。
だから今更、似たような愛まがいの何かを醸し出されてもウッワとなってしまうし、痴漢された時と同じくらい気分が悪い。
孤独な自分を癒すための家族ごっこに巻き込まれる、その手段としての思いやりであって、そこに愛はない。
そして私は愛も求めていない。求めているのは無関心だ。
どうしたって、幼少からの思い出の方が私の心の根っこにあるし、無関心か邪魔者扱いされた期間の方が長いのだ。
だからそれでいいし、今更そんなものを出されたところで鳥肌しか出ない。気持ち悪い、これが心の底からの正直な感想だ。
私は親を毒親だと思っている。
人より壮絶な家庭環境を生き抜いてきた自負と、負い目もある。
しかし何も知らない人に少しでも親の不満を漏らすと、
「良い大学に行かせてもらってるのに毒親は無い・甘え」
と、開いた口が塞がらないような驚くべき返答が返ってくる時がある。
一体どれだけ視野が狭ければ、そんな考えに辿り着くのだろう。
暴言と叱る は全くの別物だ。
お金さえ満足な家庭環境であればそれは毒親では無いとでも?
全く幸せな思考回路すぎて笑えてくる。
家族全員が、健康体で、常識を弁えていて、人間関係を築く能力がある家庭に産まれたんだろうな、と言う羨ましさだけが残る。
本や映画を観て、底辺の家庭環境や人生を分かった気になってる奴ら。
本当の地獄を知らないのだろうが、せめて自分は「知らないのだ」という可能性を少しでも頭の隅に置くべきだ。
どうして自信満々に、甘えだとかそんな説教じみたことが言えるんだろうか?
そしてこれは、私と関係が浅い人に限った話ではない。
私の育った環境や、今の状況を知っている友人でさえも、現実の私のことを理解しようとするのではなく、どこかで観たのであろうヒューマンドラマの型に私を押し込めて来る。
「メロドラマ」としての消費。
「そんな家庭で育って可哀想に、でも人と人は分かり合える・親子(家族)は愛しあうべきものである、からこうしてみたら?最近何か歩み寄り(改善)はありましたか?
まず歩み寄り合うことが改善だと思うことが間違っている。
絶対に距離を置いた方がいい人間というのは存在する、それが家族であってもだ。
友人たちからすれば、リアルなメロドラマを味わえるかっこうの話題なのだろう。
無意識なのか自覚があるのか分からないが、彼女らはいっときの娯楽として私を消費しようとする。
それがすごく悲しいし、腹の奥底が煮えたぎるくらい腹が立つ。
どんなにその人のことを好きでも、信頼していても、死ね、と思う。
だけど最近は、幸せな家庭で生まれた人とは一生分かり合えないのだという諦めと絶望の方が、育ちつつある。
そもそも「普通の人々」が「普通じゃない人々」を理解する義務はどこにもない。
大体の人が理解をしようとする時、そこには娯楽として、退屈な日々の刺激を求める、好奇心が絶対にあるのだ。
その好奇心が、こちら側からすればどれだけ残酷で、醜いものかも知らないで。
事情を話して、親身になってくれようとする人のほとんどは、「可哀想な下々の者」に寄り添う自分に浸っているだけだ。
綺麗な言葉で紡がれた悲しい気持ちや涙には寄り添っても、
本音の本音で吐き出された家族への恨みや愚痴、具体的にされた行動について言及すれば眉を顰める、話を終わらせようとする。
娯楽にならない部分は、いらないのである。
だけどその娯楽にならない部分が日常なのに、その日常に苦しまされていると言うのに。
私の人生の苦しみは、誰かのアトラクションでは無い。
それが分からない。人がほとんど。世の中の「普通の人」の9割はそうだと断言できる。
悲しいくらいに残酷で、呆然とするくらい醜いのがこの世界の現実だ。