死の中に生きている
1秒前のあなたはもう死んでいるのだと本で読んだのだけど、なるほど、そうかもしれない、毎分毎秒わたしは死んでいる。そしていつかわたしが寿命を迎え死んだとき、死んだわたしはどうやらその1秒前に死んだわたしが行ったところへいくらしい。
1秒前のわたしの死と一緒に、今のわたしは、毎秒死なない選択をしているのかもしれない、それはとても無意識的に、受動的に。そうではなくて、死なない選択をしたその瞬間、一瞬前のわたしが死んでいるのかもしれない。わたしはそれは幸せに、生きていてよかったと思ったり、そんなことを思わせてくれるヒトと過ごしている、けれどもわたしは、生きたくて生きているんじゃなく、この心臓に生かされているに過ぎない。受動的な生の上に、能動的な生を見出しているのは、他でもないこのわたしの死なない力。
わたしたちは、産まれたときから、死の傘の下にいるのだとして
いつかその傘が閉じて、その影に飲み込まれるということが、死ぬということなのか、
それとも、わたしたちは、受精卵になったときに、死の湖の上に無数の生が散りばめられることによってそのひとつひとつに発生しているのだとして
日光を浴び、ぷかぷかと浮かび、ひとつ、ひとつ、と泡が消えるように、死んでいき、最後のひとつが消えたとき、それを死と呼ぶのだろうか。
実は、死がなんだということ自体は無駄な議論だという。答えは死んだ人しかわからず、死んだ人が生きることはできない。
無駄。それは、その問いが、何一つ間違いじゃないのに、何一つ正しいというお墨付きももらえないまま、宙に浮かび続けることしかできず、そこには何の意味も持てない、ということ。だけどこのなんの意味もない、終わりのない問いこそが、己の人生に向き合うことだとすれば、わたしたちはただ受動的に生かされているだけの入れ物ではないと、そこに己の嘘偽りない意思を添え、声を発することができるのだと、わたしは思いたい。