俺は強い人間なのか
いわゆる「つるむ」のが好きじゃない。
どうしてそうなったのか自問してみる。
「ヒトは群れで行動することで今まで絶滅することなく生き抜いてきた」的なことをえらい学者様方はおっしゃるが、たぶんこれは当たらずとも遠からずで、現在の人類の繁栄を見ると、そうなんだろうと思う。であるとしたら、俺の「団体行動が苦手」という性質は、婉曲的に言えば絶滅に繋がるのだと思う。
それはさておき、「一人でいることが好き」ともいえる俺。できればあまり人と関わりたくないと思う。人は誰かに支えられながら生きているというが、今の俺は、一応職場があり、家族があり、多少のつながりがあり、確かに支えられているという実感はあるのだが、精神的な圧迫感も少なからずつきまとう。
「それが社会だよ」、「それが生きるということだよ」、と多くのいわゆる成功者は口をそろえて言うだろう。
戦後直後からの右肩上がりの経済成長をひた走ってきた成功者の方々だったら、そんな考えもまかり通る世の中だっただろうが、その恩恵をほとんど受けることなく、いわゆる不況下で生きてきた俺自身、さまざまな予期せぬ出来事に遭遇し、それなりに成功・失敗を経験して、果たしてそれが本当に自分にとっての最適な生き方だったのだろうかと自問してしまう。
「みんなでわいわいするのが楽しい」って思える人は幸せだろう、それが本音なら。
誰かに気を遣うことに、自分に嘘をつき続けることに、疲れた。
そう、俺は疲れたのかもしれない。
生活習慣病というのが、「普段の生活に起因した病気」と定義されるなら、幼少期から精神的圧迫を受け続けてきた人も、それが現在まで蓄積してしまうと、やはり発症し、「精神的な生活習慣病」になることもあるのではないだろうか。
「俺は病気だ」とは思っていない。もしかすると、肝臓病のように、自覚症状がないだけなのかもしれない。なんとか自分を保っていられるのは、このコロナ禍で、対面的な活動を以前よりしていないからなのはうすうす気付いている。その「保護膜」が無くなったとき、果たして俺は自分を保てるだろうか。
俺は、俺だ。唯一無二。人とは違う。いや、むしろ詩人金子みすゞが言ったように、「みんな違ってみんないい」んだと思う。違ってて当たり前。これを自覚できた俺は、今、人生の質が少し向上した、と思える。
「つるむ」のは嫌いだけど、色々なものごとから、できるだけ、それなりに「距離」を保って生きてみよう、と思う。現状に苦痛を感じたら、それから逃げたいと思う気持ちは誰にでも備わる本能だ。だから逃げ道も確保しておこう。
人によってその「逃げ道」の定義はいろいろあっていいはず。
俺の場合はなんだろう。そうだな、やっぱり「一人でいること」かな。
物理的、精神的に人との距離を変えていくことで、自分を保てる気がする。
我ながら漠然としすぎているな。そんなこと誰でもやっているだろうし。
ただそんな簡単なことに改めて気付けたのは、大きな収穫である。俺なりの処世術ってやつが確立されたのかも知れない。
「つるむ」ことが嫌いな俺であるが、なんとかこれまで生きてきた。なんとなく確信はもてなかったけど、こうやって文章で我が身を振り返ってみると、やっぱり俺は強い人間なのか。
なんだかんだいって、愛にあふれた生活を追い求めつつ。