本を最後から読む人は少数派でしょうか
こんにちは。ミキです。
今日は本、といっても、漫画や小説の読み方について。
私は、幼少期から、漫画や小説を読む際、最後のページから、つまり結論を最初にみて、その後、前に戻って読む、ということが多かった。
こんな読み方する人は少数派でしょうか?(きっとそうでしょうね、の意。)
本だけではなくて、ドラマも同じような感じだ。
1話完結型は大好きだけど、連ドラは、最初から見る気はあまりしない。
間のドロドロとか、怖い!!とか、そういうことはすっとばして、
気になっていたドラマは、最終回をまず観るのだ。
だって、最終回には、大体、1話からの回想シーンが入っているので、
1話から観ていなくても大抵はわかるのだ。
そして、それが面白かったら、1話から見てみようかな、みたいな。
そんな中、これは最後から読んでも意味ないぞ!という小説に出会った。
容疑者Xの献身 東野圭吾
内容の詳細は省くが、私の本の読み方を知っている友人から、この本を紹介してもらったのだ。
「これなら初めから犯人わかってるよ。」と。
え?どういうこと?
読んだらわかる、ということで読み始めたが、私の好物ネタだらけで、大興奮しながら読み進めた。
・「数学ネタ」
登場人物のウチの一人は、数学者だった。
特に、研究していたのが、四色問題。(これもここでは言及しない。)
映画では堤真一さんが、その数学者を演じていた。
壁や天井の模様を見ては、それが四色に、隣り合うことなく塗っていくイメージをしていくところは、「あるある!!」という感じで興奮した。
取り組んでいる問題に絡む図形などが日常にあると、それを当てはめて考えてしまうのだ。
余談だが、堤真一さんが数学者を演じられたのは、初めてではない。「やまとなでしこ」でも、楕円方程式などをテーマに研究する数学者を演じていたのだ。
「やまとなでしこ」での堤真一はモテモテで、その当時、数学セミナーの懇親会に参加した際、いろんな大学の教授たちが
「数学者があんなにモテるなんて今までにはありえない!」
「数学者がドラマに出てくるときは、ストーカーとか、陰湿なモノばっかりだったのに!」
「数学者のイメージを良くしてくれたということで、日本数学学会から表彰してはどうか!」
みたいな感じで興奮してお話されていた。
なんせ、数学者が活躍してくれるお話には、反応してしまうものだ。
・「結論に至るまでをエレガントに仕上げる。」
数学といえば、計算!だろうか?
そのイメージは高校までで、大学からの数学は、基本的に証明だ。
・「仮定」(条件、初期設定)
・「結論」(結果)
「仮定」から「結論」は先に分かっていて、それをどうロジカルに繋げていくか、それが「証明」だ。
「証明」することはできるのか?
そもそもその「結論」は正しいのか?
「仮定」をもう少し変更すれば、その「結論」にたどりつけるのではないか?
「仮定」と「結論」が同じでも、「証明」する方法は複数ある。
それをいかにエレガントにするのか。
「仮定」も少なければ少ないほど、美しく思えるのだ。
そう、この《容疑者Xの献身》は、持っていきたい「結論」に対し、少ない「仮定」を設定した上での、証明だったのだ。
まぁ、ミステリーは全部そういうものだ。
でも、初めから犯人がわかっているミステリーに出会えて、
これこそ、「数学」そのものだ!!と興奮したのである。
・「台詞にしびれる」
数学者と物理学者がメインで進んでいくストーリーなので、いたるところに、数学的ワードが散りばめられていて、それもまた興奮するポイントだった。
私が一番しびれた台詞は、これ。
「一見繋がっていそうだが 決して交わらない直線上に移せばいい」
ここに、この証明のカラクリが全て詰まっているといってもいいほどの台詞!「こんな表現するんだ!!!東野圭吾すごい!!!!」と大興奮した。
なのに!!!!
映画化された際に、この台詞は採用されていなかったのだ。
え?なんで??
なんでなん??
原作がある映画化も、これもまた「証明」と一緒だと私は感じる。
原作を、そのまま映像化するのは物理的に無理なので、時間尺に収めるスゴ技を、脚本家の先生方は行っているのだ。
だから、私は、すでに原作を知っている映画やドラマを見ることを結構好んでいる。
あの原作をどんな風に仕上げるんだろう。
どんな風に魅せてくれるんだろう。
そこにとてつもない魅力を感じるのだ。
だから、正直、結論がどうであろうと、どうでも良いのだ。
東野圭吾さんのこの小説に出会って以来、作品によっては、結論を見ないで読むことも覚えていった。
でも、やっぱり、結論を、あえて、先に知っておくことで、間の証明のエレガントさを感じれたときに、私は感動し、
さらにその作品を好きになる。
「一見繋がっていそうだが 決して交わらない直線上に移せばいい」
好きな台詞が入っていないのは、仕方ないことなのだ。
映像化する方が選んだ証明に入っていなかっただけなのだから。
結論はそんなに大切か?
先に結論を提示することに対する東野圭吾さんの挑発的な台詞は、「容疑者Xの献身」に込められていた。(ように感じる。)
《P≠NP問題》
数学の問題に対し、自分で考えて答えを出すのと、他人からきいた答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが簡単か。
あるいは、その難しさの度合いはどの程度か。
(容疑者Xの献身からの台詞)
こんな風に作品を見る癖は、長年続けている。
ここ、こんな風に繋げてくるのか!!!の感情を味合わせてくれる瞬間はたまらない。
また、
小説を読んだときに、私の中で広がる世界観を、覆してくれる、よりエレガントさを魅せてくれる映像作品に出会えた時は、とてつもなく幸せだ。
最近、好きな漫画に出会った。これは必ず映像化されるだろう。
近いウチに紹介しようと思う。
前にも述べたが、私にとっては「結論」より、「仮定」(前提)と「証明」の方に魅力を感じるのだ。
目に見える物質世界での結果と、見えない非物質世界での変化の割合は、
「5:95」であると聞いたことがある。
つまり、目に見える結果は5%でしかないのだ。
目に見える5%を動かそうとするのではなく、見えない95%をどう変化させるのか。
その95%をどう見るかによって、見える5%の意味も変わってくるのだ。
「結論」がどんな風に見えるのか。それをエレガントに仕上げてくれるのは、「仮定」と「証明」だと私は思う。
だから、私は、本の最後のページを躊躇なく、最初にめくる。