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「子どもに必要なのは、転ばないことか? それとも転びながら学ぶことか?」

ある日、近所の公園で近所の子どもと泥団子を作って遊んでいたところ、幼い男の子がブランコから滑り落ちるのを目撃した。ジャッキー・チェンのアクションさながらに前方に転び、泣きながら地面にうずくまった。私がハッと立ち上がったその瞬間、母親が駆け寄った。「大丈夫?」と優しく抱きしめると、男の子はしばらく泣いた後、再びブランコへ向かっていった。

一方、少し離れた場所では、サッカーボールで遊ぶ親子がいた。つまずいて転んだ子どもに手を貸さず、「立てる?」と優しく声をかける父親の姿があった。男の子は涙をこらえながら自力で立ち上がり、悔しそうな表情を見せつつも、前を向いて歩き出した。

この二つの場面を目にしながら、私はふと考えた。子どもが成長するために、本当に必要なのは「転ばないこと」なのか? それとも「転びながら学ぶこと」なのか?

倒れる力があるからこそ、立ち上がれる

私たちは「立ち上がる力」を重視しがちだ。しかし、立ち上がるためには、まず「倒れる力」が必要なのではないだろうか。

倒れることを恐れ、転ばないように先回りして助けすぎれば、子どもは「倒れ方」を学べない。柔道では、まず受け身を身につけることが重要とされる。強い衝撃を受けても力を分散させ、怪我を防ぐ技術があるからこそ、思い切り動くことができるのだ。

子どもも同じで、失敗したときにどう受け止めるか、どう乗り越えるかを知っていることが、本当の意味での「強さ」につながるのではないか。

「助けること」は「育てること」なのか?

甘やかすことは、単なる優しさではない。安心感を与え、子どもが「また挑戦してみよう」と思える環境をつくることでもある。しかし、それが過剰になれば、子どもは自分で考え、行動する機会を失ってしまう。

一方で、厳しさもまた、単なる試練ではない。「自分の力で立ち上がる経験を積ませる」という意図があれば、それは成長の糧となる。しかし、厳しさが恐怖やプレッシャーに変わったとき、子どもは挑戦すること自体を避けるようになってしまう。

支えることと、突き放すことのあいだで

親や教育者の役割は、「完全に守ること」でも「突き放すこと」でもない。その間にある「適度な距離」を見極めることではないだろうか。

子どもが転んだとき、すぐに抱きしめるのか、それとも自分で立ち上がるのを待つのか。その選択は、状況や子どもの性格によって変わる。重要なのは、転ぶこと自体を否定せず、転びながら学ぶ力を育てることだろう。

あの日、公園で見かけた母親も父親も、それぞれの方法で「子どもが転びながら成長する」ための環境をつくっていたのかもしれない。

そして、先の見えにくい社会を生きる私たち大人もまた、「どう転ぶか」「どう立ち上がるか」を学び続ける存在であるべきなのだろう。

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