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ニヒリズムを超えて 西部邁著 犯罪と尊敬
たとえば、こういう事だ。
親が危篤で、死に目に遭えないかもしれないひとがいたとしよう。
深夜、病院からの電話でおこされて、車で病院まで急いで駆けつける時、スピード違反をして警察にパクられた。
これは、人間的罪か?
僕は、そうではないと考える。
その犯罪は、とてもまっとうだ。
言葉が矛盾するかもしれないが、そうだ。
僕が、警察官なら、気をつけて早く行け、と黙認する。
でも、その警察官がパクられて裁判にかけられた場合、警察官は有罪になるかもしれない。
僕が裁判官だったら、有罪にする。
しかし、その警察官に、人間的罪は、ない。
むしろ、やさしい人間だし、真っ当だ。
法律、ルールとは、そういうもので、それをわかって付き合うのが、正しい。
しかし、その警察官は、警察を退職金も出ずクビになり、家族からも怨まれ、世間からも軽蔑されることが、予想される。
僕達は、その、世間だ。
その警察官に、僕達がとるべき態度は、軽蔑ではなく、立派な事をした、と
尊敬する事だ。
もし、警察官が生活に困ったら、金銭の援助をするのも良いだろう。
僕達の、法律、ルールに対しての、真っ当な接し方とは、
こういう事だと思う。
逆に、警察官には、申し訳ないが、僕達はこの警察官に対して、これぐらいしか出来ない。
だからといって、スピード違反を取り締まるという、法律、ルールが、悪法だとは、一概には言えない。
スピード違反を取り締まって、自動車を妥当なスピードで走行させることは、結果、多くの命を救う事になるかもしれないからだ。
罪とは、人間的なものと、法律、ルール上のものと、2種類に分けなからばならない。
法律、ルール上の罪が、全て人間的罪では、ない。
最終的に、人間が犯していけない罪は、人間的罪の方だ。
いろいろなことがらを、なにが罪と感じるかは、究極的には、在る土地の文化だと思う。
気候とか、宗教とか、生活とか、いろいろあるだろう。
現代、法律は、多くの場合、民主的に造られる。
民主主義のシステムに欠陥があったりすると、
それは、正しく無いことになるし、かりに、民主主義のシステムが完全だったとしても、民主主義というものは、反対意見もある訳だから、ある人にとっては、この法律、ルールは、人間的罪だ、と言う人も出てくるだろう。
この時、初めて、悪法も法なり、という、ソクラテスの言葉が、成立するのだ。
やっぱり、この場合、悪法であっても、法律は、みんなで守らねばならないし、
革命の根拠がなくなるので、
革命すら、禁止して良い。
仮に、民主主義システムが完全だったとしたらね。
だから、民主主義システムを、改善し続けた方が、
良い。
諦めたら、駄目だ!
ニヒリズム。
ニヒリズム、駄目!
という、結論。
ニヒリズムを超えて
西部邁 著