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ショックを超えて

2度目の手術は、3歳の誕生日を目前にした頃。
術式はRAOでした。
簡単に脱臼してしまうほど被りのない臼蓋に、骨盤の腸骨を削って移植。
それでも足りない分は、人工骨で補うと言う大掛かりな手術でした。

その手術の時、当時の主治医から間違いなく輸血が必要になるとの説明があり父は「血液センターのものではなく、母親の血を使って欲しい」と頼んだそうです。

先生からは
*100人に1人くらいの割合でアナフィラキシーショックを起こすことがあること
*後遺症として、脳に障害が残る可能性があること
を説明され、それでも父は血液センターの血を輸血して病気をもらうよりはと先生にお願いをして母の血を輸血してもらうことにしたそうです。

そして手術当日。
私が覚えているのは、この世の終わりくらい泣きまくって手術室に入ったこと。
手術室はすごく明るくて、普段見ない格好をした看護師さんがいて泣きじゃくる私にフルーツを3つくらい挙げてどれが好き?と聞かれ1つを答えたらマスクをつけられ意識がなくなったこと。
そのマスクから出る空気が、吸った瞬間からすごく気持ち悪かったこと。

目が覚めると、私はICUに居ました。
ガラス張りになっている窓際に私のベッドが置かれていて、昼なのか夜なのか分からないくらい電気が煌々とついた明るい部屋でした。

手術中、なにがあったかというと…
母の血を輸血した時、私は見事に100人に1人に当たりアナフィラキシーショックを起こし血圧が下がり危険な状態に。

予定通り、血圧を上げる薬を投与したけど上がらず。
手術室の外では両親が看護師さんから、私がショック状態になっていて薬を投与したけど血圧が上がらず次が最後の投与であることを告げられていました。
その時、次で血圧が上がらなかったら覚悟してくださいと言われたそう。

小さな子供の体は、薬も投与できる量や回数が決まっています。
先生が、ショック状態になることも想定して手術の準備をしてくれていたおかげで私は脳に障害が残ることなく危険な状態を離脱することができました。

ICUで、私が唯一覚えていることはお腹が空いて仕方がなくて…その時に食べたビスケットがすごく美味しかったこと。

後で母に聞いた話、実は術後ICUで目が覚めた私が看護師さんにお腹が空いたと訴えたみたいで看護師さんから「お腹が空いたみたいで…本当はダメなんだけど、クッキー1枚くらいなら食べさせてあげられるので何か食べられそうなもの持ってきてあげてください」と言われて母が持ってきてくれたものだったみたいです。

その時の美味しかった記憶は今でも鮮明に覚えています。

入院生活は、私は右手の甲に点滴を入れられて包帯でぐるぐる巻きにされていたのでご飯を食べる時は必ず誰かが介助に来てくれていて母が来られない時は看護師さんか助手さんでした。

ある時、母が来るはずの時間にたまたま来られなくなってしまって看護師さんから今日ママ来られなくなっちゃったみたいと伝えられご飯の時間になりました。
普段なら親が付き添っている子なので誰も気付いてくれず、泣きそうになるのを必死でこらえて頑張って一人でご飯を食べたのも忘れられません。

誰か気づいてくれないかな?甘えちゃいけないな。そんな事を思っていたのを覚えています。

お臍の下あたりから、手術をした左脚の先までギプスをされていたのでどこに行くにもベッドのまま売店も母がベッドを押してくれてお散歩していました。

毎日、母が帰る時間になると寂しさを隠して笑ってバイバイ。
病室の窓から、車が出ていくのを見送っていました。
夜、消灯して病棟が暗くなると寂しくて一人でこっそり泣いていました。
声を出すと看護師さんに見つかってしまうから、声を出さずに布団をかぶって。

3歳の私なりに、母に心配をかけないように必死だったんだろうなと思います。
懐かしい、幼い頃の入院の記憶です。

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