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ある新聞記者の歩み 20 禁断の木の実を食べたらどうなるかと案ずる人たち

本題の前にひとこと伺います。
毎日新聞は先日(2月21日)創刊150周年を迎えました。現存の新聞では最も歴史ある新聞です。ただ、新聞全般の発行部数が年々大きく減少するような厳しい環境のもとで迎えた150周年ということになります。
1965(昭和40)年に入社された佐々木宏人さんは、在職中に100周年を迎えました。100周年はどんな感じだったのですか?覚えていることを教えてください。
そして、今度の150周年ですが、佐々木さんはどんな感想をお持ちですか?

うーん、100周年の時は1972(昭和47)年でしょう。僕は水戸支局から経済部に上がって2年目。130周年の際に出された『毎日の三世紀 新聞が見つめた激流130年』を見ると「2月21日に各本社で『百年記念式典』を挙行」とあります。でも、全然覚えてないなあ。その頃、経団連クラブで電機メーカー担当で飛び回っていたころですね。式典にも行っていないと思います。

むしろその2ヶ月後に表面化して大騒ぎになった、外務省沖縄密約機密漏洩事件で祝賀ムードは吹っ飛んじゃったことを思い出します。政治部の外務省キャップだった西山太吉記者が国家公務員法違反で逮捕されました。われわれ現場の記者は役員室まで乗り込んで「権力の横暴を許すな」と抗議して、紙面もその論調で行きました。ところが起訴状で西山記者が女性秘書と“情を通じ”て、情報を入手したことが書かれました。その結果、抗議の論調は腰砕けになり、読者の反発はすさまじく部数は減らすし、経営的にもピンチになり5年後の1977(昭和52)年12月、経営危機に陥り事実上の“倒産”新旧分離につながっていくわけで、この経緯を振り返るといい思い出ではないなあ。

ただ経済部長の後、1993(平成5)年4月以降広告局に移り企画開発部長を経て、広告局長になります。この時は毎年「2月21日の創刊記念日広告特集」の企画広告の展開、協賛の名刺広告の集稿などをやりましたが、色々集稿に苦労しましたね。広告主の側からすれば「なんで毎年協賛しなくちゃいけないの?」、「そこを何とか」というわけで頭を下げるわけで、150周年の協賛広告を見ると広告局員の苦労がしのばれます。

でもまあ、毎日新聞、よく150年、持ったと思います。その社内の風通しの良さ、リベラルな雰囲気、本当に勤めていて気持ちのいい会社でした。そういうユルイ社風だからダメなんだ―と他社の人から言われたことがありますが、そういう社風が他社のよりも多い新聞協会賞受賞につながって来ていると思いますね。
先日、利用している身体障碍者(当方は国指定遠位性ミオパチー患者)向け福祉タクシーの70才代のドライバーと車内で話しをしていて、彼は損保大手の超有名企業に勤めていたんだといいます。だけど「二度と働きたくない」といっていました。「僕は生まれかえっても、給料は安かったけど、また当時の毎日新聞に勤めたいなあ」といったら、「いいですねえ」と羨ましがられました。

毎日新聞はデジタル化の波を受けて、厳しい環境にあることは承知していますが。ぜひ頑張って欲しいですね。特に今回、社長になる松木健君は、ぼくが甲府支局長時代の新人記者でよく知っているので、おおいに応援したいと思っています。

さて、連載の続きに戻ります。
唐突ですが、三冠王という言葉があります。普通は野球を思い浮かべるでしょうか。エリートの世界での三冠王とは、東大法学部首席卒業、公務員試験1番で合格、司法試験1番で合格の三つを取った人だそうです。元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、そんな三冠王・大蔵官僚の家に夜回りで立ち寄るたびに、財政の破綻を懸念する憂国の弁を聞きました。現在では、禁断の木の実ならぬ国債の発行残高は1000兆円を超え、コロナ禍が襲ったこともあって、歯止めという言葉が無縁になったかのようです。
元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリーの20回目。佐々木さんの経済部大蔵省担当の頃の経験を振り返ってみるのも、いまの時代を考えるためにおおいに意味がありそうです。(聞き手=メディア研究者 校條諭)

◆ゆうちょ(郵貯)は日本の“スイス銀行”?! 

Q.1979(昭和54)年に政府がグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)を提案したのですが、結局つぶれてしまったということを伺いました。前回、つぶしたのはいったい誰か・・・というところで話が終わりました。そのあたりからお願いします。

 それを潰した中心人物が、当時自民党の国対委員長だった金丸信さんと思います。金丸さんが言ったのは「水清くして魚棲まず」。その心は「世の中には違法スレスレのブラックマネーが流れていて、その金が経済を円滑に回しいていく潤滑油になっている。その潤滑油を止めたらどうなる⋯⋯⋯」です。いかにも金権政治の田中角栄派の重鎮らし言い方ですよね。後年、1993(平成5)年自民党副総裁の時、脱税事件で逮捕されたことを考えると実感がこもっていますね。グリーンカード法案は、1980(昭和55)年に「4年後実施」ということで法案は成立したのですが、郵貯を含めた金融業界、特に証券業界の猛反対、「国民背番号制につながる」という世論の危惧もあり、結局それは施行されなかったのです。 

 この時の主税局長は福田幸弘という人でした。この人は海軍経理学校卒で主計中尉。終戦前年のフィリピンのレイテ沖海戦の生き残りで、「連合艦隊-サイパン・レイテ沖海戦記」(1981年、時事通信社刊)という400ページ2段組みに及ぶ本をまとめています。復員後1952(昭和27年)年東大法学部を出て大蔵省に入り、仕事の合間に書かれました。「これを書き終えなくては戦友に申し訳ない」といっていましたね。僕も大蔵省担当の時、出版されたので献呈を受けましたが、今でも「第一級の史書」と評価は高いようです。背筋のピンとしていた人物でしたね。

福田幸弘著『連合艦隊―サイパン・レイテ海戦記』1981年、時事通信社刊

最後は国税庁長官から参議院議員になって、議員の途中、2年ぐらいで亡くなってしまいました。僕のいたころの大蔵省の幹部はみんな戦争体験があり、「二度とあんな馬鹿な戦争を起こしてはならない。財政をあずかるものとして野放図な軍備拡張のための国債発行だけはしない。財政規律は守らなくてはいいけない」という芯が通っていたように思いますね。

 僕はこの福田主税局長の所にはしょっちゅう通っていました。グリーンカードの法案は実施段階の1985(昭和60)年には廃案になるんですね。この間、郵貯を抱える郵政省は「郵便局はスイス銀行です」なんてことを言って、自民党の郵政族の金丸さんなどを前面に出して公然とグリーンカード実施反対をとなえていました。福田さんは何とかしようとするのですが、結局グリーンカードがダメになるというか、実施はお先真っ暗、法案はお蔵入り必至という感じでした。

 Q.「郵便局はスイス銀行です」というのは、スイス銀行のように預金者の名前は一切明かさないという意味ですね?

 そうです。スイス銀行は当時、世界の富裕層が匿名で安心して金融資産を預けられるということで知られていました。自国での課税逃れのためなんでしょうね。

スイス銀行を取り上げた本の一例

Q.法案が可決されたのにお蔵入りになったというのはどういういきさつなのでしょうか?

 やはり国会を通すのに「実施は四年後」という条項を付けたのが間違いだったと思います。時代はバブル経済の前兆ともいうべき、土地の値上がりなどが起きはじめ“アングラマネー”なんて言葉が出始めたのもこのころではないかなー。それを全部表に出すのがグリーンカードの目的ですから、猛反対が起きてダメになったわけです。

 廃案になった時、福田幸弘主税局長は「政治家というのは信用できないな」と憮然とした表情で言ってました。それはよく覚えてます。

 Q.それは記者がみんないる前で言ったのですか?

 二人で話してる時です。無念そうな顔が今でも思い浮かびます。その後、金丸信が脱税などでやられますね(1993年10億円の脱税事件で東京地検特捜部に逮捕)。そのときは僕はもう経済部にいなかったんですが、野次馬根性で見ていると、大蔵省が遺恨をはらしたんだと思います。グリーンカード自体は頓挫しましたが、その後、郵貯の民営化証券会社への監督強化などが実現して匿名口座の開設はできなくなりました。 

◆1面トップ記事をものにするには「夜回り」! 

Q.財政の問題はまたあとで伺うとして、ところで、大蔵省担当の身体の動かし方と言いますか、物理的なイメージを知っておきたいのですが、大蔵省内部の記者クラブにいていろんな人に話を聞きに行っていたということでよろしいですか?

  大蔵省記者クラブというのは財政研究会(通称財研・ザイケン)というんですが霞が関の大蔵省ビル2階にあったんです。2階の廊下の右側に記者クラブがあって左側に会見室があるんです。毎週火曜日と金曜日の閣議後に大臣会見というのが必ずあったんですね。それと毎週、次官会見もあった。まあとにかく1日に1回か2回くらいは会見があったような気がします。そうだ会見室の隣には小さい小部屋の麻雀卓がおいてあり、時々やりました。今はどうなんだろう。

 関税局の通関統計なんかは、時期が時期であればかなり大きく扱うことになるし、景気が悪い時なんかは通関が落ちたなんてのが最初に出るわけですから、まあ細かいのはいろいろありましたよ。今だったら中国からの半導体の輸入額、 中東、アメリカなどからの天然ガス、石油の輸入額がトピックかな。

Q.大臣以外にもいろいろあったわけですね?

 そうそう、当時、大蔵省は主計主税局のほかに、銀行、証券、理財、国際金融、印刷、関税、造幣など各局、それに国税庁などがありました。地方には森友学園問題で有名になった近畿財務局など地方財務局地方国税局、その下部には各地の税務署があるわけです。もっとも国税庁は脱税などがありますので社会部の担当でした。今は銀行局、証券局、国際金融局などは総理府の外局の金融庁に移ってますね。大蔵省自体が2001年「財務省」になりましたからね。

当時、年末の予算の時期になって忙しくなったりすると、会見はもう本当に入れ替わり立ち代わりいろいろありましたね。その前の夏から秋ぐらいにかけては各主計官のところを回ってどうなるかというのを取材します。

 あとは主税局で来年度の税収の見通しはどうだとか、けっこういろいろと各省の担当者から問い合わせがありました。厚生省から年金・社会保障の問題でこういう話があるんだけどどうだとか、運輸省から東北新幹線の延伸についてどう考えてるんだとか、政治部から金丸信がこう言ったとか、総理のところに主計局長が来ているとかいうような話はしょっちゅう入ってくるわけです。それを持って取材に行くわけです。 

Q.それは会見ではなくて個々に動いてということですね。

 そうです。

 Q.その当時の大蔵省は部屋に勝手に入っていくという感じですか?アポを取るという感じではないわけですね?

 そうですね。○○課のドアを開けて「こんちは」って言って。ただ次官とか局長に会うときは、一応秘書に電話して時間が空いているかどうか確認しますけどね。

 Q.そういう時、他社の記者と鉢合わせということもあるんですか?

 そりゃあもちろんあります。一緒に聞こうなんていう事もあったと思います。今の日銀総裁の黒田東彦さんは主税局の企画官で、よく行きましたけど、愛想がよかったなあ(笑)。でも、のちに日銀総裁になるとは・・・。おまけに、総裁になってあんなに安倍首相の言いなりで、国債の日銀引き受けをするなんて考えられなかったなあ(笑)

 それはともかく、やっぱり夜回りで話を聞くとけっこう1面トップになるんです。あとは次官のところにはよく夜回りで行きました。当時の次官は後に太陽神戸銀行(現三井住友銀行)頭取で、バブル崩壊時の日銀総裁になる松下康雄さん。自宅玄関わきに小部屋があって、そこで会えるような形になってるんです。でも口は堅かったナ。

 Q.夜回り専用の記者応接室みたいなもんですか?

 そうそう(笑)。でも彼には間違ったことを書くと次官室の秘書から電話がかかり、呼びつけられて怒られたな(笑)。

 Q.さきほど証券業界への監督強化とおっしゃったことで思い出しましたが、のちの90年代に起きた、銀行・証券会社などのMOF担(大蔵省担当)による接待漬けの事件を思い出しました。いわゆるノーパンしゃぶしゃぶ事件です(笑)。

 たしか僕が経済部長から広告局の企画開発本部長の当時のことで、直接は取材していません。ただこの事件に引っ掛かって逮捕されたり、引責辞任した幹部は、僕が大蔵省を回っていた当時、主計局次長の中島義雄さんを筆頭に「彼は○○年次の次官候補だ」と言われていた人が多かったなあ。でも僕の時代銀行のMOF担は財研にまで出没していた。こちらは民間の新聞記者でよかった(笑)。彼らは人事情報を聞きたがったのです。残念ながら“ノーパンしゃぶしゃぶ”に連れていかれたことはなかったなあ(笑)。

 でも財研担当当時、向島の料亭に招待されたようなことはあったなあ。その頃はまだバブル経済時代の前でそんなに派手なことはなかったし、まさか大蔵官僚が“ノーパンしゃぶしゃぶ”なんて想像もつかない。外から見ていて、先に触れた福田幸弘主税局長なんかの時代と、明らかに“戦争を知らない世代”に変わったんだと思いましたね。 

◆底なしの赤字国債拡大へ

 Q.さて、現在は消費税を10%でも国債残高は、令和4年度予算案ではI千兆円を突破していますよね。だいじょうぶなんでしょうか?

財政に関する資料というのを見てみると昭和40年度予算、40年不況といわれた時のテコ入れで2千億円の赤字国債を出しました。その後は48年まで赤字国債は出さず、予算執行で不足分が出ると、次年度返済するという“借換え債”でまかなっていたんですね。本格的に特例債といわれる赤字国債を出すのは、石油ショック(1973年)後の不況脱出のために1975(昭和50)年で、はじめて2兆円を発行しています。僕が財研にいたのが1981年から83年ですね。その頃、赤字国債発行額は6兆~7兆円。

  振り返ってみると赤字国債発行は1975(昭和50年)位までは“禁断の木の実”だったんだよね。政治部に行ったばかりの頃、福田番でしたから福田赳夫首相に赤字国債発行のことを聞いたことがあるんですよ。福田さん戦前戦後、大蔵官僚で主計局長の経験もあり、戦前の財政、つまり戦時国債を国民に販売するなどして戦費調達したのが、戦後のハイパーインフレで紙切れになってしまったというのを知ってるから、「赤字国債というのは一回出すと禁断の木の実で、財政がとんでもないことになる。だから、これだけは手を染めてはいけない」と言ってました。

 僕が政治部の1977(昭和52)年頃、赤字国債発行は4兆5000億円くらいかな、とにかく少ないですよね。2022(令和4)年度の新規国債発行額37兆円で、その結果、年度末の発行残高1026兆円の見込みというんですから、福田さんの言った通りですね。それも市中銀行では処理できなくなって安倍内閣時代、ついに日銀引き受けという禁じ手中の禁じ手に手を染めるんですから・・・。先進国中で断トツの債務残高比率ですよね。 

Q.大蔵省内では国債発行について反対意見は強かったんでしょう?

 そりゃもう主計局を中心に危機感が強かったですね。だから「増税なき財政再建」という旗印を掲げて、1982(昭和57)年度予算では各省の予算請求を前年並みとする「ゼロシーリング」、翌年の1983年度予算では「マイナス5%シーリング」を実施して、国債発行を下げようと努力したことは事実ですね。

  注)ゼロシーリングとは公共予算の概算要求枠の伸び率がゼロで前年度と同額であること。マイナスシーリングとは前年度より一定率を減じたものを要求限度とすること(コトバンク)

◆エリート資格「三冠王」宅夜回りで聞いた警告

 その当時、あとで証券局長と国税庁長官になる角谷正彦さんがいて、わりとこの人好きだったんですが、2019年に亡くなりました。財研担当を離れてからある勉強会で一緒になり、中国やシリコンバレー視察にいっしょに行ったりしたこともあります。当時、彼は主計局総務・法規課長でした。

 角谷さんというのは、東大法学部を出るときに三冠王って言われてたんですよ。東大を首席で出て、行政職の公務員試験を一番で通って、司法試験も一番で通ったんです。それで有名な人だったんです。夜回りで目黒の自宅によく行きました。口を開けば「国債を発行し続けていくと国家財政が破綻する。とんでもないことになる。ハイパーインフレが起き、国民生活が大変なことになる。一定のところで歯止めをかけておかないとだめだ」と力説してました。そういうことを言われて当時一面トップで書いたことあったなナー。ホント、クレバーな人で僕のような素人にも分かりやすく、原稿が書きやすいようにレクチャーしてくれるんだよね。さすが“三冠王”、書かなきゃ悪いような気分にしちゃうんだよね。

でも結局、政治家と各省の圧力に負けて、出し続けることになり、国債発行については歯止めが効かなくなっちゃった。その当時はみんなイタリアの事をバカにしてました。「そんなことやってるとイタリアみたいになるぞ」と。手元のデータを見ると今のイタリアの国債比率はGDPの12%、日本は40%。考えちゃうなあ。

 イタリアは1980年代までは放漫財政が続いて、世界的に財政問題の問題児といえば“イタリア”といわれていました。しかしEUの通貨統一参加条件をクリアするため、1990 年代に次々と増税歳出削減策を打ち出し、財政の黒字体質を実現しています。それでも放漫財政のツケの国債の利払いで、いまだに苦労しているようです。

 Q.金融システムが崩壊するというところまではいかないからとか、国債の保有者はほとんど国内だから大丈夫、という説がありますがどうなんでしょう?

 その説はMMT(現代貨幣理論)だっけ?「国は通貨を印刷して発行する権利を持っているのだから、いくら借金があっても通貨を発行することでその債務を返済することができる。国債をいくら発行しても構わない。心配ない」―というんでしょ。どうなんだろう歴史的にイタリアをはじめとしてブラジルだとか、財政政策の失敗(国債乱発)のツケでインフレのひどさっていうのを体験しているわけですからね。だから僕なんか今の状況を見ていて、その理論はどうなんだろうと疑問に思うな。「国は借りた金は返す」―というのが当時の大蔵官僚の基本で、これは正しいと思うよ。人間関係の基本の一つは「金を借りたら返す」ということでしょ。国だってそうですよ。MMT理論を実践して成功している国なんてきいたことがない。現代のプードゥ教(呪教)の一種だと思いますよ。

 これからどうするんだろう。日本銀行金融政策が基本で、財政政策に関与するというのはおかしいと思うな。いずれ国債の暴落、ハイパーインフレの到来になるんじゃないのかな。あったらえらいことになるという気がしますよ。この所、コロナ禍もあり、資源関係を中心にインフレ傾向が強まってきていますね。本当に心配ですね、僕たちのような年金生活者はアウトだな。そこのところは、これから本当に政治家がどう考えていくのかが問われていると思いますね。

 当時は今の時代と違って国家の統治システムというのが、官僚支配という言葉があったくらい、官僚のガバナンスが効いていた時代ですから。今は官邸支配で大統領型になってきています。以前は大蔵省の力がものすごく強かったので、基本的にお金を出すのは大蔵省だっただから、大蔵省はものすごく抵抗できたんです。政治家はそういう強い大蔵省の掌の上で踊ってれば、自分たちも大蔵官僚のせいにして、選挙民に都合よく言い訳が出来たわけです。 

◆戦争体験の無い政治家ばかりになると・・・

ところが官邸支配になってきちゃって、安倍長期政権で顕著になってきた選挙民迎合のポピュリズムみたいな形になってくると、財政規律っていうよりも国民の生活が先決だと。確かに東日本大震災、今回のコロナ渦もあるが、将来のことをどう考えるかということ本当に考えなくなってきたというか、政治家はもうちょっとしっかりしなくちゃいけないんだろうと思います。そういう意味で戦争体験者がいなくなったことは大きいですね。

 戦争で親兄弟、仲間を失っていることに対して、一つの後悔というか懺悔みたいな気持ちがあって、当時の官僚や政治家が財政に向かい合った時にも、やっぱりあの戦前の道をたどっちゃいけないというふうな・・・。歴史修正主義とも違うんだと思うんですがね。体験に基づく信念があったよね。

Q.戦争体験というのはそんなに影を落としていますか。

戦後の政治家っていうのを戦争体験ということで切ってみると、1番目は、吉田茂を代表とする戦中から活躍して、戦後にもう戦争は絶対やらないぞという人達が作った政治があるような気がします。。

 2番目か3番目に竹下さんとか宮沢さんとかのように、どっちかというと大正生まれだがそんなに実戦経験のない世代、高度成長を実現させた自信を持つ政治家。田中角栄のように一兵卒で戦争に参加したが、それをバネに高度成長の中に身を置き、それをさらに追及した政治家。

 3番目が中曽根さん、小泉さんのような戦後の復興を成し遂げたけども、これからは日本が前面に世界政治に出て行くんだ、戦争体験というのはそんなに前面に出さなくてもいけるぞという政治家。

 いずれにしても戦争というキーワードで語れるような気がする。

ところが安倍さんなんかになると、そういう世代とは違うわけですよね。だから国債の発行の怖さというのもわからないだろうし、軍備の怖さもわからない。 

Q.大蔵省担当の時、さっき角谷さんの話を一面トップに書いたということでしたが財政規律を守るという方向の記事が多かったのですか?

 話を聞くこっちは財政学者じゃないから、学問的に突き詰めているわけではないけど、国家財政というのは財政規律―収支均衡、つまり予算は税収でまかなうのが基本―という考えが強かったと思います。どちらかというと大蔵省応援団ですね、財研担当というのは。

 Q.経済部全体の雰囲気としても路線としてはそうですか?

そりゃそうです。国債なんかじゃぶじゃぶ出してもいいよと言う人なんかいなかったんじゃないかな。毎日新聞発行の経済週刊誌「エコノミスト」の論調もそうだったと思いますよ。

 Q.社説だとか理論派の人たちもそうでしたか?

 理論派のデスクなどからは「国債発行は国を誤る道、キチンと批判しなくてはだめだ」と尻を叩かれた記憶がありますね。

キャップの寺村荘治さん(第19回でハチャメチャながらユニークな発想の人と紹介)がワシントンの支局から経済部に上がってきて財研のキャップになって、予算編成を2回経験するのかな。1981(昭和56)年、82年と。寺村さんに僕は影響されるのだけど、彼に冷やかされました。11月から12月の年末まで大体毎日、来年度予算編成の途中経過の原稿を書かないといけないわけです。2段か3段程度で一面に載るわけです。

 今年の予算はどのくらいになるかとか、当時は大体40兆円規模ぐらいだったのかな。その頃、丁度「津軽海峡冬景色」っていう、石川さゆりの歌が流行ってました。「『日本財政冬景色―』って、お前の原稿の“リード(最初の書き出し)”にはいつもそういうのがついてる」と冷やかされたことがありました。それは財政が厳しいということと、グリーンカード実施がダメ、それに増税も無理、つまり大型間接税が導入できない、結果として赤字国債を大量に出さなくてはならないということ・・・、そんな大蔵省の苛立ちが僕の原稿に反映していたと思います。

 (以上)