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メディアあれこれ 19 ネットのコミュニケーションは基本的に流言である (『インフォアーツ論』書評)

「インフォアーツ論」野村一夫(著)洋泉社新書 2003年1月

<この小論は、「クリエイジ」(2004年9月9日号)からの転載です。現在のネット、特にSNSは、当時の想像をはるかに超える荒れようですが、個々人にとってのネットへの対し方の基本は変わらないと言えましょう。>

 ブログ(ウェブログ)ブームがアメリカから日本にようやく飛び火して、燎原の火のごとく広がりつつある。個人が自分の日記を発信するのに最適のしくみとして普及しているが、近鉄球団買収に名乗りを上げて名前を売ったライブドアの堀江社長の「社長日記」のように、有名人のブロッガーも増えている。 
      
 アメリカでブログが特に存在感を示したのはあの9.11以後、ブログを使った「市民ジャーナリスト」がたくさん誕生して以降だ。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの大手マスコミがそろって「ブッシュの戦争」を肯定する大合唱に飲みこまれてしまった中で、市民ジャーナリストがブログを使ってマスコミに載りにくい情報や意見を発信し、対抗的な国際世論を形成する役割を果たした。しかし、そのすべてがまともであり一定の水準を持っているかと言えば、もちろんそうではなく、玉石混淆なのは事実だ。

 「インフォアーツ論」の著者野村一夫は、「ネットは外部からの可視性に優れた流言である。長く記憶にとどめられ、検索され、たえず引用されつづけるうわさである」という。確かに、ブログも含めて星の数ほどあるホームページで語られていることの大部分は、基本的に「流言」(うわさ)である。ただし、流言というとマイナスの響きがあるが、ここではプラスかマイナスかの価値判断は込めていない。いずれにせよ、ネットのコミュニケーションは基本的にこのような特性を持っているのであり、しかも文字で書かれているので、遠く離れた第三者も容易に知ることができる。

 さて、こうしたことを踏まえて浮かびあがる疑問は、いまや生活になくてはならない存在になってしまったネットというメディアを、我々はうまく使いこなす知恵とワザを持っているのだろうかということである。著者は、いま学校で行われている情報教育が実は情報工学的な「インフォテック教育」であって、それとは異なる「インフォアーツ教育」が必要だと主張する。実際、日頃学生に接触している著者の目からは、本をろくに読んだこともなく、携帯を一時も離さず内向きのローカルな口コミにかまけている学生(著者によれば「台無し世代」)にインフォテックな情報教育をしても、「安直な情報主義」を強めるだけになってしまうという。

 では、インフォアーツとは何か。それはリベラルアーツを模した著者の造語であり、新時代の情報環境を生きる知的素養のような意味を込めている。「ネットワーカー的情報資質」ないし「情報学芸力」という言い方もしている。「コンピュータの操作ができるだけでなく、そこで得られる情報の吟味や能動的探索」、「図書館や書店に並んでいる無数の情報パッケージや新聞や放送での情報の比較・吟味」、「メールやメーリングリストや掲示板などによって討議して認識を深めたり問題解決をしたり、コミュニティを形成していく関係構築的能力」、「さまざまなツールやメディアを駆使して仕事を展開するノウハウ」といったものが著者の描くインフォアーツの内容である。

 コンパクトな本ながら、著者の社会学者としての見識と厚みのある経験に裏打ちされた説得力のある好著である。
 (参考)著者の個人サイト「ソキウス」

※タイトル写真は五色沼(裏磐梯)。本文とは関係ありません。