くらしのアナキズムとシビックテック(第8回定例会の振り返り)
滋賀県内の自治体や企業らが集まり、スマートシティのあり方を一緒に考える研究会。前々回から「コモンズ」「自治とデータ」というテーマを扱ってきましたが、今回は「シビックテック」という言葉とこれまでのテーマとを、あるキーワードを触媒にシンクロさせてみることで、「自律的で創造的な」スマートシティとはいかなるものかについて、考えてみることにしました。
ここでテーマにしたキーワードが「アナキズム」というものです。参考図書として、松村圭一郎氏の著書「くらしのアナキズム」を取り上げました。
アナキズムと聞くと「国家の解体」「無政府主義」などと少し過激なイメージを持たれがちですが、この本の著者で文化人類学者の松村圭一郎氏は「アナキズムとは実は国家システムや資本主義の市場のなかに併存する「助けあい」のシステムである」とこの本のなかで説いています。
コロナ禍に起きていた、くらしのアナキズム
ここで、コロナ禍の2020年春に県内のとある高校生(当時)さらだぼぉるさんがつくった、コロナ感染状況のデータ可視化サイトを紹介します。さらだぼぉるさんにこのサイトを作った経緯をお聞きしました。
このサイトで注目したいのは、県庁の依頼によってつくられたわけではないという点にあります(このサイトとは別に、県庁自らが開設した公式サイトもありました)。感染者数のデータもオープンデータではない状況のなか、彼が県庁に「PDFのデータを使わせてほしい」とお願いして、自らスクレイピングをかけてデータ整備を行ない、すべて自己責任のなかでカンパを募りながら運用していたのです。
こうして住民が自らテクノロジーを活用することで身の回りの課題を解決し、自ら暮らしを便利にすることを「シビックテック」(シビックハック)といいますが、コロナ禍では他にも、有志でテイクアウトマップを作るなど各地で様々なアクションがありましたよね。滋賀県地域情報化推進会議でも「コロナに負けない地域×ICT事例」として、先述のさらだぼぉるさんのケース含めていくつか紹介されています。
しかし、コロナ禍や震災といった時ほどシビックテックが生まれやすいのはどうしてなんでしょうか。さらだぼぉるさんに聞いてみました。
予め決められたルールのなかだけではどうしようもない、身動きの取りづらいところがあるのなら、自分たちでできることを考えてやってみる。そんな自律的な行動で生まれる「共助」によって、暮らしの穴を補完しあう。テクノロジーの民主化によってこのようなシビックテック(シビックハック)は生まれやすくなったのだろうと思いますが、これぞまさに松村氏が著書のなかで言及する「くらしのアナキズム」なのではないでしょうか。
社会のスキマのなかで互いに信頼関係を築きながら、共助を生み出していく
ただしルールや市場原理を越えればなんでもよいわけではなく、テイクアウトマップにしても感染者数の可視化サイトにしても、データや表現方法が間違っていたら混乱を起こしかねません。データの背景を捉えようとせず、またデータがないことの背景も捉えようとせず、そのコミュニティのルールや文化がつくられた背景や経験の裏付けを無視したり軽視して作られた一方的なサービスや行動は、誰の役にも立たないどころか、却ってさまざまなトラブルを引き起こしてしまうのだろうと思います。
なのでデータを提供している人とのオープンな対話に基づく信頼関係であったり、一定の倫理観のようなものが求められるのだろうと思います。2014年に、びわ湖大花火大会のデータをオープンにしてみんなで自由にアプリをつくり合う企画がありましたが、あれも実は裏側では大会実行委員会や警備本部などとの密な連携が行われていたのです。
参考図書で言及されるように、アナキズムとは決して国家システムや資本主義を破壊するものではなく、社会のスキマのなかで互いに信頼関係を築きながら、共助を生み出していくシステムであるといえます。故に、そのスキマの存在をどのように「コモンズ」として見出し、認め合うかが重要であり、そのうえで行われる多様な人による多様なシビックテックによって、「自律的で創造的な」スマートシティは機能していくのではないでしょうか。
振り返り
以下、今回の振り返りコメントです。受動的・思考停止的なデータ整備・デジタル化・都市OSづくりは、却って市民を隷属的なものにしてしまうということは、これまでの研究会を通じて確認しあえたのではないかと思います。
アナキズムという考え方を取り入れていくことへのジレンマについて触れた振り返りもありました。特に行政職の方などは、法律上の根拠があってこそ業務が成立する(法律の留保の原則)ところ、そのような立場がくらしのアナキズムという考え方をどう受け容れるかは、難しいけど重要なチャレンジなのだろうなと思います。
「くらしアナキズム」の生まれやすさという点では、サービスを提供する側と享受する側との関係性も重要なのでしょう。というか、そもそもこの2者が当初から自治のなかで分離された関係であるという前提そのものを、何かしらの方法で見直しあう必要があるのかもしれません。