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人の心を手玉に取れる!男と女のワルいテクニック

男と女、どっちが本当にしたたかなのか?

 世の中には、所詮、男と女しか存在しない。
 もっとも近年は、見た目や意識の中ではどちらだかわからない人間もいくらか増えてきているみたいだが、いずれにしてもトイレにはどちらかにしか入れない。戸籍にしても、どちらかに印をつけなくてはならないのだ。どんなに力んでも、その中間は現在のところ存在しない。おそらく、中性は永遠に存在はしないであろう。
 ということは、どんな状況であれ、男と女で過ごしていかなくてはならないのがこの世の定めなのである。そして、そこに恋愛や憎悪といったさまざまな感情が交錯するから、複雑になってくるのである。もっといえば、恋愛という感情があるからこそ、憎悪が発生するのである。
 だけど、男は女を好きになり、女は男に惹かれていくことによって社会は成り立っていくようになっている。また、生理として、男女はそれぞれ惹かれあうようになっているのだから、それを否定していては、社会が成り立たなくなってしまうのも確かだ。
 お互いに、異性の存在があるからこそ生きている励みになっているというのは、十代の時代(あるいはそれ以前)から、老齢に至るまで不変のものであるともいえるのだ。
 そして、その感情を刺激して動かしていきながらそれぞれの駆け引きが存在するのである。それが男と女の社会の面白さなのだ。それでは、男と女では、どちらがワルなのだろうか。状況にもよるが、いずれにしてもその相手の心理状態を知ることによって、男と女の駆け引き社会を上手に生きていかれるようになるのである。
 それでは、本当にしたたかなのはどっちだろうか。
 男は、「女のしたたかさにはかなわないよ。表面で笑顔や涙を見せていながら、腹の中ではすべて計算ずくなんだから」と言う。
 これに対して女は、「男のほうがしたたかじゃない。よく、釣った魚にはエサをやらないっていうけれど、こっちはまだあなたの恋人ですなんて一つも思っていないのに、もう自分は彼氏気取りで、こっちにあれこれと注文をつけて。それでいて、自分はすぐに心は別の女性にも向いていくのだから」
 まあ、どちらもどっちと言うことがいえようが、いずれにしても、男と女の世界はそんな駆け引きがゲームのように成り立っているということなのだ。つまり、男と女の世界において、その優劣を下そうとすること自体が愚なのだと言われてしまえばそうだということである。

ワンポイント
男もしたたか、女もしたたか。いずれにしても、その駆け引きを楽しむことこそ生きている楽しさである。

『嫌われ松子』はどうして、嫌われてしまったのか

 近年のベストセラーとなった山田宗樹の小説に『嫌われ松子の一生』(幻冬舎ノベルズ/幻冬舎文庫)というのがある。テレビ(TBS系列)でも、連続ドラマとして放映され、映画化(2006年東宝作品=中嶋哲也監督)もされたので印象に残っている人も多いだろう。
 ストーリーとしては、一人の優等生が優秀な成績で、それなりの大学を卒業して教員となって故郷の中学校に赴任。そこで、校長のセクハラを受けたりするところは、よくある新任いびりの一つである。ただ、そこから一つの事件を機にして転落していくのである。修学旅行で起きた事件で一人の不良生徒をかばったことが原因で、そこから信じられないくらいにどんどんと転落の一途をたどっていくというものだ。
 やがて教職を追われて、作家志望の青年と同棲、その男のために風俗に身を落とし、ソープランドで働くが、やがて男の自殺。それでも、その世界から抜けられなくなり、持ち前の向上心から売れっ子になって行きながらも、店を移り、そこで出会った男を今度は殺害。やがて、刑を終えてからは地道に暮らそうとするのだが、やくざになっていた、中学の教え子の不良に再会。
 なぜか、その男のかもし出す悪の匂いに取り付かれて、気がついたら麻薬取引をしている、その男をかばいながら、逃げていくというもの。最後はかつての聡明な美人教師の面影もない容姿となって、やがて町の不良少年たちの手によって殺されてしまうというものだ。
 ストーリーだけを追っていくと、まさに転落への道とはこういうものなのだろうかということしかないものだ。
 ところが、その中で、松子は何度も幸福感を味わっていく。それは、悪の空気を吸い、その世界に浸れば浸るほど、そこに現れるアクの強い危険な男たちに、あるときは自らの意志によって、あるときは知らず知らずのうちに、その香りに吸い寄せられてしまうのだ。自分ではわかっていても、その世界から逃れられなくなってしまう。
 そんな松子は、本当に嫌われていたのだろうか。
 実は、そうではなく、その周囲の社会に存在場所がなくなっていっただけのことなのだ。しかし、少なくともその男と一緒にいられた時間だけは、「幸せだ、ずっとこのままでいたい」と思わせただけでも、その男たちが放った「悪」の香りは、毒でありながら、毒を越えた何かがあったということになるのではないだろうか。
 かつてのヒット曲に『再会』(歌・松尾和子/作詞・佐伯孝夫)というのがある。その歌詞の中で、「みんなは悪い人だというが、私にはとてもいい人だった」という内容のくだりがあるが、それこそはまさに、特定の自分にとっては、周囲からどんなに悪人であったといわれようが、大事な存在なのだということを述べている。
 悪の魅力とは、とくにこうした男女間の問題には強烈に印象を残すもののようだ。いい人の話を歌いこんだ歌謡曲よりは、悪人だけど自分にだけはいい人だったという話のほうが、やはり魅力的なのだ。
 この世には、すべてが、善のほうが求められるとは限らないということがある。それは、文学作品でも、歌謡曲でも、悪人が主人公となっていたり、悪人に影響を及ぼされる人間のほうが、魅力的なことが多いからではないだろうか。
 逆に、もし松子自身も本当に「ワル」の女であったとしたら、ここまでの転落はなかったのではないかともいえる。いい人であったからこそ、もともとよい子であったからこそ、悪の魅力に翻弄されていってしまったのである。そして、その悪の刺激こそが、彼女の常識の中で輝いて美しく見えてしまったのだろう。

ワンポイント
社会的にみれば、悪いといわれるものほど、特定の部分においては独特の魅力を発することがある。そんな、悪の魅力は場合によっては効果的だ。

男は馬鹿な分だけお人よしで、損をする

 この章の冒頭で、「男もしたたか、女もしたたか。いずれにしても、その駆け引きを楽しむことこそ生きている楽しさである」という処世術のポイントを述べた。しかし、実際には、やはり男はシンプルで単純明快にしてわかりやすい。男のヤケ酒は、往々にして、ガーッと飲んでそれで終わりだが、女のヤケ酒、ふられ酒は愚痴っぽくて長い。付き合わされたらたまったものじゃない。
 もちろん、そうではない人もいるだろうが一般論としてはそうだ。
 昔から、女は執念深いというけれどそれもあながち嘘ではないようだ。そんなにモノ覚えがよくない女性を自認している人であっても、こと自分のこととなると、執念深く覚えているということがある。
「あの時、あなたはこんなこと言ったわよね。それで、私はずっとショックを受けていたのだから」
 そんなことを口にする女性もよくいる。
 そのくせ、男と女では、男のほうが未練がましいし、過去の執着してしまうのだ。それは、いい言葉で言えば男のロマンチックな部分かもしれない。ただそれは、言い換えれば未練が吹っ切れないだけだったり、気分の切り替えが効かないだけなのだ。
 よく言われることに、別れた人の思い出を未練がましく残して、手紙や贈り物を後生大事に持っているのは、女よりも男のほうがはるかに多いのだ。女は、自分が吹っ切れた証に手紙を焼き棄てたり、その当時は素晴らしい想い出になるという思いで貰ったものを、平気で投げ棄てられるのだ。
 つまり、それだけ女はしたたかで、踏ん切りもいいのに、男は未練がましいし、吹っ切れないのだ。
 それをまた、男はロマンだと思い込んだり、「オレは、あの人のことを思って別れたのだ」とか、自分の思いを美しくしようという思いが強いものだ。それだけ、馬鹿でシンプルだということもいえよう。また、その分だけ、男は背負っていくものを自分で多くしてしまって、損をしているともいえるのではないだろうか。
 長い人生を生きていくうえでは、未練たらたらと背負っていくものを多く持って引きずっているよりは、過去は過去、新しい自分は新しい自分として、吹っ切っていったほうがいいことが多い。少なくとも、そのほうが楽になるはずである。
 世の中は、男と女しかいない。そんな中で駆け引きやゲームが行われているのだが、女のしたたかさに男は翻弄されていき、女はそれを糧にまたしたたかに伸びていくのだ。

ワンポイント
未練をロマンに置き換えるのはいいけれど、結局、気持ちが吹っ切れないでいると、気持ちが重くなってしまう。

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