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坂本龍馬式リーダーシップの極意

まえがき

 日本人で坂本龍馬の名前を知らない人は少ないだろう。まわりに「龍馬が大好き」と言う人も多いと思われる。
 動乱の幕末に土佐に生まれ、泣き虫だの洟垂れだの言われ、おねしょがなかなか治らず、勉強も続けられなかった子どもが、江戸から明治へと、時代を大きく動かした。その成長のみごとさには目を見張るものがある。
 龍馬は現在の日本人だけでなく、同時代を生きた人々をも魅了した。西郷隆盛、勝海舟、 桂小五郎、千葉道場の師範である千葉重太郎、さらには松平春嶽、河田小龍、横井小楠、大久保一翁……土佐の下級武士の子が一生会うことも話をすることもないはずのそうそうたる顔ぶれである。彼らは会えば必ず龍馬に好感を持ち、たちまち魅了され、龍馬を愛した。
 そして彼らが持っている経験や知識や理念を、惜しみなく龍馬に与えた。龍馬の残した歴史上の成果は、彼らから学んだことを龍馬が自分の夢につなぎ、自分流のやりかたで、自分流に組み合わせ、恐れずに実行したことで得られている。
 なぜ、龍馬は愛されるのだろう。その理由を三つ考えてみたい。
 ひとつ目は、龍馬は愛されただけでなく、愛したからではないか。
 龍馬は剣術の達人だったが、人を殺すのはきらいだった。他の人が殺すのもきらいだった。どんなことをしでかした人も、なんとか生かそうとした。人の命そのものを愛していたのである。
 ふたつ目は、実際的だったこと。
 幕末には勤王の志士や佐幕派が、熱い理想と理念のもとに多く死んでいった。龍馬は理屈や意地よりからだと頭を使って、実際に何かを成すことで新しい時代を切り開こうとした。彼が設立した日本最初の商社は、船で物資を運ぶことで薩長同盟を成立させた。もちろん、ちゃんと手数料を受け取っている。
 三つ目は、若くして死んだこと。
 龍馬が活躍したのはわずか数年の間のことで、それゆえ彼には幼年時代と青春時代しかない。龍馬が長生きして明治政府に関わったり、海援隊の仕事を続けていたら、必ず素晴らしい結果を残したと思うが、それはかなわなかった。しかし同時に、龍馬は年とった老獪な陰謀家にも、軍需で肥る財閥にもならないですんだ。だから、龍馬の青春はくすむことなく輝き続けるのではないだろうか。

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第一章 土佐のよばれたれ

●龍馬誕生

 土佐、高知の城下で坂本家に男の子が生まれた。天保六(一八三五)年十一月十五日のことである。兄ひとり、姉三人に続く五番目の末っ子だった。長男の権平とは二十一も年齢が離れ、親にとっては「歳をとってからの子」で、家族はみんな子どもの誕生をたいへん喜んだ。出産の前の夜、眠っていた母親は胎内に熱い炎を吐きながら龍が飛び込んだ夢を見たと言う。「龍馬」という名前はこれを聞いた父親の八平がつけた。
 ところが、勇ましい名前とはうらはらに、幼いころの龍馬は洟垂れの泣き虫で、近所の子どもたちにしょっちゅういじめられては泣き、十歳ごろまでおねしょをしていた。着ているものもだらしなくいつもゆるんでいる。そしてついたあだ名が「よばれたれ」である。「よばれたれ」とは、「寝小便たれ」のこと。「ばり」が小便のことなので、「夜ばり垂れ」が訛ったのだと思われる。
 子どもたちばかりか近所のおとなまでもが、「誰かと思ったら坂本のよばれたれか」などと言ったりした。それでも龍馬はいじけることもなく、家族や使用人に可愛がられて大きくなっていった。

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 当時、武士の子どもはある年齢になると読み書きを学ぶようになる。龍馬も十二歳になると楠山塾に通うことになった。塾では漢文の素読をさせられるのだが、ここでも龍馬は落ちこぼれ、成績はまったくふるわなかった。よばれたれと呼ばれたころと同じで教室でもバカにされてばかりいる。本人にも向上心はまったくない。
 そんなある日、ひとりの少年と言い合いになり、頭に血がのぼった少年が刀を抜いて龍馬に斬りかかった。龍馬はとっさに、学用品や本を入れる手文庫のふたで刀を受けた。洟垂れで泣き虫の龍馬は長じて立派な剣術家となるのだが、この話が事実であれば、このとっさの防御が彼の最初の才能の閃きだったのかもしれない。
 結局、塾の先生の知るところとなり、龍馬は塾をやめてしまったのだが、龍馬が生涯に受けた教育らしい教育はこれだけである。

●土佐藩の郷士

 龍馬が生まれ育った土佐藩とはどんなところだったのだろう。
 歴史は安土桃山時代が終わりを告げる慶長五(一六〇〇)年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」に戻る。当時土佐を治めていたのは長宗我部氏で豊臣方の西軍についていた。しかし合戦は東軍徳川方の勝利に終わり、長宗我部氏は領地を没収されてしまった。そして土佐二十万石を褒賞として与えられたのは、合戦で手柄を立てた山内一豊である。それまで一豊は遠州掛川(静岡県)六万石の領主だったのだから大出世である。
 お家断絶となった長宗我部の家臣たちは山内氏の入部に抵抗した。しかし、やがて上級家臣たちは状況を受け入れ、あらためて他藩に仕官する道を取る者もいた。が、いきなり放り出された下級家臣は追討されても行き先がなかった。もともと、家臣とはいうものの、彼らの多くはふだんは農耕をしたり商売に励む「兼業武士」であったのだ。土地を離れて再仕官などできるはずもなく、最後まで抵抗して山内家を手こずらせ、ついに「郷士」という地位を認めさせたのであった。それは「関ヶ原の戦い」から十三年後だった。
 地元で生きる郷士は、いつのまにかうまくとけ合っていく。土佐でも「郷士」を認めることで、形の上では結着したように見えた。しかし、ここには、山内系中心の上級武士と、もともと地元の下級武士、郷士との間に、「上士」「下士」という階級差が厳然と残った。そして百年二百年と、長宗我部と山内の因縁を忘れるほどの時間が経っても薄れることなく、上士と下士の差別は生き延びたのである。
 その差別は峻烈だった。下士はお目見得以下で藩主どころか城のおもだった役職人に会うことはできず口もきけない。どんな優秀な人物であっても、取り立てられることはありえない。道で上士に遭遇したら道を譲らなくてはならない、うっかり肩でも触れたり、水たまりの泥を上士の足袋に一点でもはねかけたりしたらその場で無礼討ちされても文句は言えない。どんな侮辱にも頭を下げなければならない。
 下士は絹ものを着てはならない、熱暑の夏でも日よけの傘をさしてはならない、郭内で下駄をはいてはならない等々、奇妙で理不尽な決めごとがたくさんあった。のんきでぼんやりした龍馬であったが、洟垂れのころから、上士を見たら道を譲れ、上士の子どもに無理を言われても言い返すななどということは厳しくしつけられていたはずである。
 抑圧された下士の不満は二百年以上もじわじわとくすぶり続けた。江戸時代の終焉期、長州(山口県)、薩摩(鹿児島県)などに伍して大きく時代を動かした力の底には、日本の未来を考えることは自分自身の未来を考えることという、下士たちの現実的な思いがあったに相違ない。

●乙女ねえやん

 坂本家も郷士である。一応武士ではあるが、近くの本家では酒屋や質屋など手広く商売をやり、かなりの田畑を持ち、高知の町でも資産家のひとつであった。龍馬は何ひとつ苦労や不自由を感じることなく育った。家族も愛情深く、明朗で闊達、みんな働き者である。
 中でも三歳年上の姉、乙女は龍馬を特に可愛がった。乙女は身長五尺八寸(約一七五センチ。一七〇センチという説もあり)、体重三十貫(約一一二・五キロ。一〇〇キロ説もあり)という女丈夫である。十二歳で母親を亡くしてめそめそしている泣き虫龍馬を、
「いつまで泣くがか!」
と一喝し、母親に代わって厳しく育てた。
 乙女は男勝りで気っ風がよく、剣術、馬術、弓術、水泳が確かで、その上和歌をよく詠み、絵画や三味線、一弦琴(土佐で好まれた一本の弦を張った琴)、舞踊、浄瑠璃の名手という文武両道のスーパーウーマンである。その上正義感も負けん気も強く、「お仁王さま」というあだ名でちょっとした有名人であった。乙女がこのように育ったことをみても、坂本家には闊達な気風があることがわかる。
 後に乙女は山内家侍医に嫁いだが家風が合わなかったのか、実家に帰ってきてしまう。夫との不和が原因ではなかったようだ。出戻りといえば、二番目の姉、栄も一旦嫁いだが、離別している。
 嫁いで婦道を守るには、坂本家の家風はあまりに自由だったのかもしれない。また、坂本家は嫁いだ娘が戻ってきても困らない十分なゆとりがあったはずである。
 乙女は龍馬が幼いころから、弱虫で泣かされて帰ってくるのが歯がゆくてしかたがなかった。いじめっ子を木刀で追い払いながら、龍馬には相手を泣かせるくらいになってほしいと思っていた。いつまでもよばれたれで、家族には甘やかされ、町のみんなにバカにされている弟だが、どこか人と違う何かがある、将来何かする、と信じて疑わなかった。しかしその何かがなんであるかは乙女にはわからない。
 毎日龍馬が塾から帰ってくると、乙女ねえやんの剣術の稽古が始まる。逃げ腰の龍馬をつかまえてかかり稽古をさせ、打ち込みを教える。時に池に突き落としたり、乗馬では龍馬を馬に乗せて馬の尻を鞭で叩いて走らせたりした。龍馬は乙女ねえやんの姿を見るとつい逃げ出したくなるのだが、それでもこの「お仁王さま」の乙女ねえやんが大好きなのである。
 土佐といえば相撲の盛んな土地。家の中でも足相撲(畳に座り片足だけを使い相手を転がす遊び)など、したかもしれない。もちろん龍馬はさんざん転がされたろう。

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●剣術道場

 龍馬が十四歳になると、父は龍馬を剣術の道場に通わせることにした。
 当時、家督や家業、財産を継ぐのは長男と決まっており、次男以下は一生長男の世話になる部屋住みになるか、他家に養子に行くか、自分で何か仕事を始めるかの他に生きる道はない。
 父は、一日中遊んでねえやん相手に竹刀を振り回しているより、免状のひとつももらって道場の師範くらいになれれば上出来、くらいに思っていた。とにかく毎日行くところがあるのが大切なのである。
 龍馬は父に言われた通りに城下の日根野道場に通った。道場主は高知では一、二という評判の日根野弁治で、小栗流の他、居合、小太刀、槍、長刀、棒術などなんでも教えている。
 龍馬の剣は少しずつ上達し、そのうちめきめきと腕を上げていく。あいかわらず身なりはだらしなかったけれど、しわだらけ、しみだらけの着物に包まれたからだは鍛えられて大きくなっていった。そして身長五尺八寸(約一七五センチ)体重十八貫(六七キロ)の固い筋肉のついた、当時では大男の青年になった。坂本家の乙女と龍馬のふたりが並んだら、ずいぶん目立ったことだろう。
 ある雨の日、日根野先生が傘をさして歩いていると、向こうから龍馬が傘もささずに濡れながらやってくるのが見えた。川に泳ぎに行くと言う。
「こんな雨の中を?」と問うと、
「泳げばどうせ濡れるき」。
 確かにその通りではあるが、おかしなことを言うと思った。人が考えもしないような龍馬の発想が面白かった。
 龍馬が日根野道場に通いはじめて五年が経った。十九歳になった時、先生から「小栗流和兵法事目録」を授けられた。つまり資格を取って一応の卒業を許されたのである。

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●江戸へ

 目録をもらって家に帰ると、父親もきょうだいも、昔からの坂本家の奉公人たちも大喜びしてくれた。
「龍馬、おまんは学問は向いちょらんき、剣術をやるがよかろうのう」
と言ったのは、父親の八平だった。

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「じゃき、江戸に修行に行くのを殿様に願い出てみるがよ」
 坂本家の願いは聞き届けられ、龍馬は剣術修行のための十五カ月の国暇を許されることになった。
 嘉永六(一八五三)年が明けた。土佐の冬の日差しは暖かく、龍馬が縁側でごろごろひなたぼっこをしていると、使用人のおんちゃんがやってきた。
「おまんさあは江戸へ行くがか」
「ああ、行くがよ」
 おんちゃんはさびしそうである。よばれたれの泣き虫の末っ子がなぜか特別に可愛いのであった。
「だけんど帰ってきますろう」
「うんと強い剣術の先生になって帰るがやき。ほいで土佐ででかい道場をつくるがよ」
 おんちゃんがしわだらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「江戸にゃえらい先生がおるがねや」
「おる。たんとおるがや。あしゃの先生は千葉いうて江戸でも一番の先生じゃ」
 ――三月半ば、龍馬の旅立ちが明日に迫った夜、父親が龍馬を呼んだ。そして書き付けを龍馬に渡した。それは次のようなものであった。

 修行中心得大意
一、片時も忠孝を忘れず修行第一の事
一、諸道具に心移り銀銭を費やさざる事
一、色情にうつり国家の大事を忘れ心得違いあるまじき事
  右三ケ条胸中に染め修行をつみ目出度帰国専一に候 以上
 丑 三月吉日   老父
  龍馬殿

 ひとりで旅立っていく息子に対する父親の期待と心配、愛情にあふれた戒めである。末っ子のよばれたれの泣き虫の息子が自立していくのを見守るしかない親の思いが龍馬にも伝わったことだろう。
 後年、さまざまな人と出会うのだが、龍馬を苦手としたりきらったりした人はほとんどいないようである。みんなに愛された龍馬はこうした家族の愛情に育てられたのであろう。
 乙女ねえやんも、しわだらけのいつものかっこうで出かけようとする龍馬を叱りとばすことで、しばしの別れを惜しんだ。
 旅は陸を行く。三里(約一二キロ)のところまで友人や親戚が送り、そこからは溝淵広之丞とふたりになる。江戸までは約三百里(約一二〇〇キロ)の道で、一カ月余をかけ江戸に着いたときには季節は初夏になっていた。

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