兵庫県知事さんが辞任しない理由について考える【これも通俗道徳に源流があるのか】
今や、ニュースにならない日はない程の報道量となっている兵庫県知事さんの問題。ついに、百条委員会まで開催されました。
百条委員会って何?と思っていた私にはそれなりに勉強になりました。
予想はされていたものの、ここでも知事さんは自己弁護(に私には見えます)に終始され、辞任の気配は全く感じられません。
舛添要一東京都知事のときの騒動との違いを実感します。
本人のキャラクターの問題と言ってはそれまででしょうが、兵庫県知事さんと舛添さんとでは、社会への認識が異なるのでしょう。
この点について、数多くの歴史検証の書籍を出されている山崎雅弘さんが、この件についてではないですが、次のようにポストされています。
兵庫県知事さんとしては、「辞任したら負け」と思っておられるのは間違いないのかなと思います。
辞めたら間違いを認めるという無謬性の瓦解という側面もあり、どんなことがあっても「辞めない」のは固い意志なのではと思います。
その点が、舛添要一さんの認識とは全く異にしているのだと思います。
山崎さんの
というご指摘は、これはまさに通俗道徳のど真ん中の思想でしょう。
「勝った我こそが正義である」という認識である限り、負けは死を意味する。ここにも根深い、通俗道徳の価値観を感じざるを得ません。
さらに、
勝ち負けがすべてという認識がもたらす派生的な思考も深刻です。
勝ったものには、勝者にふさわしい要素があり、負けたものには、敗者にふさわしい原因がある。
このような理解は、通俗道徳の思考がもたらすものだと感じます。
個人的に興味深いのが、これを内面化しているのが、年長者の舛添要一さんではなく、舛添さんよりも若い兵庫県知事さんだという点です。
でも触れましたが、この通俗道徳の価値観をより内面化しているのは、この兵庫県知事さんたち40歳代以下の世代が分水嶺になっている印象があります。
氷河期世代より下は、経済の低迷しかしらない世代。
彼らが直面したサバイバルゲームから得た視点は、その上の世代は、自分に甘い、能天気な思考にすら見えているのかもしれませんし、さらに彼らの無関心、無理解も相まって、「勝つこと」に執着せざるを得なくなった必然的な構造があるのではと思います。
個人的には、東大生への評価が、一部にあった
ガリ勉、頭が固い、ダサい、みたいなネガティブな評価が一掃され、
勝ち組、頭がいい、天才、みたいなポジティブな評価一色に転換したのも
通俗道徳の価値観に基づく評価に変わったからではないかと感じています。
このnoteにも、「東大生が教える・・・・」という記事がヤマのようにありますが、これがマーケット的にも、発信者の自己イメージ的にもこれがスタンダードなんだという認識があるのでしょう。
流石にここまで問題が大きくなったので、今後この知事さんの
・おねだり
・パワハラ行為
・告発者への介入
はなくなるのではと思います。
次の選挙に出馬されるかどうかはわかりませんが、
ご自身が負けを認める辞任という形だけはないのではと思っています。
私たちの社会には、この通俗道徳の価値観が普通に蔓延している。それに過度に罹患するかはそのときの経済状況によるのかもしれません。
今後、この国の経済が立ち直る気配がない以上、この通俗道徳の価値観を内面化した人たちが、「まさか」という言動を撒き散らし、それに大衆が熱狂するという社会構造は温存されていくのではと思います。
そのとき、「彼こそが救国の徒」と大衆が誤認するような人間が登場する可能性もある。そのときは、いよいよディストピアの幕開けになるのかもしれません。
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