他責思考か自責思考か。それが問題だ。【通俗道徳を認知することで見えてきた思考の呪縛】
先日、通俗道徳について書きました。
これまで、言葉としては知っていたものの、ほとんど意識することがなかった通俗道徳の思考。
これを意識するようになってから、じわじわと自分のものの見方に影響を与えているように思います。
改めて通俗道徳の思考とはこちら
この通俗道徳の思考を軸に世間を眺めてみると、かなり雑に分類すると、世間の人々は、「他責思考」か「自責思考」かに大別できるのではと思うようになりました。
結論から言えば、どちらがいい思考なのかは、ほとんど意味がないと思っています。
当然のことながら、どちらにも一長一短があると思うからです。
まず、他責思考について考えたいと思います。
一つの傾向としていえるのが、いわゆる成功者と呼ばれる社会的地位が高い人、経済的な成功を手にした人は、他責思考が強いように思います。
言い換えると、通俗道徳の思考を内面化しやすいと言えそうです。
自分は努力して、○○を得た。それを手にできていない人間は努力が足りない。苦しさを訴える前に自分の怠惰を反省すべきである。
となりやすいようです。冷徹なような気もしますが、ただ、そうなることにも理解ができるのかなとも思います。
これこそ、通俗道徳の思考のど真ん中になるのではと思っています。
そうなると、成功した自分は、本質的な成功者であると自己イメージを規定しがちになる。
問題は、ここからで、そのイメージが確立した後、何か不都合ことが起きた場合、それは、自分の問題ではなく、他者の問題となるように認識されているように感じます。
つまり、成功することで、自責思考のベクトルは壊死してしまうのかと。
そうなると、現実は厳しいように見えてしまいます。
なぜなら、自分に失敗の要素を見出せないと、現実を理解することが困難になるからです。かつての日本軍や一部のお役所の無謬性にもつながると思うからです。
次に自責思考については、その逆の傾向があるように思います。
それは、自己肯定感が著しく下がる傾向があるからです。これは、私自身が陥った危険な罠だとも思うので、強く実感します。
必要以上に自分を責めてしまう。世の中には、そのような性質を鋭い嗅覚で見つける人もいますので、喜び勇んでやってきて他者を責める人もいます。
これを跳ねのけるためには、一定の理論武装が必要であることも自分の人生経験から実感しています。
何らかの手段で抵抗しないと、やりたい放題する人間は世間にはいますし、成功者の中にも一定数います。
サンデル教授が成功には運もあるという視点は、自己イメージを形成する上で、とても参考になったと思います。
自責思考の強い人は、コツコツでもいいので、努力を重ねることが大事だと思います。小さな努力は小さいながらも成果を確実に結ぶからです。
人に喜んでもらったり、褒めてもらったり、ちょっとした臨時収入があったり・・・という他者からみれば、些細な事ですが、そのような体験を確実にもたらします。
これは、自己イメージを変える要素になる。経験上、自己イメージは、外部との関係性によってしか変えられないと思っています。
人に親切にするだけでも、感謝の言葉が手に入ります。それが人間には必要なことでもある。
まとめとして、他責思考であれ、自責思考であれ、この通俗道徳の思考が根を張っているのではと思います。
人生が生きづらいと思ったときは、この通俗道徳の思考にとらわれていないかチェックしてみてはいかがでしょう。
自分の知らぬ間に、大きく根を張っているのかもしれません。私自身がそうだったので、余計にそう思います。
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