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パリ五輪でも表面化した「通俗道徳の闇の深さ」【ポイントオブノーリターンと化した自己責任論はどこへ向かうのか】

まもなく閉幕するパリ五輪。
今回は、男子バレーボールのみを楽しむことにしていました。

バレーボールは、好きでよく見ますが、それは「女子」限定でした。これはテニスも同様で、理由はシンプルで女子の方がらラリーが続いて楽しいからです。

ところが、今回の日本代表の男子バレーボールチームは違いました。

とにかく拾う。拾って拾って、全員でボールを繋ぐ。ラリーが続き、見ていてとても楽しいバレーボールをしていました。

イタリア仕込みのスキルフルなエース石川選手のスパイク、サーブ、
強烈サーブに会場を盛り上げるパフォーマンスも楽しい西田選手、
拾うバレーの真骨頂であるリベロの山本選手。
そして、二人目のリベロとも言われ、好レシーブを連発しながらもアタッカーとしてもスパイクを決めまくる髙橋(藍)選手
まるで、漫画のようなキャラクターぞろいの選手たち。
彼らをを束ねるフランス人・フィリップ・ブラン監督。
物語性十分の魅力に溢れたチームでした。

バレーの楽しさを存分に私たちに見せてくれました。
準々決勝でイタリアに惜敗したのは、大変残念なことですし、誰よりも悔しいのは、選手たちでしょう。

そんな選手たちに対して、拍手を送ることはありえても、批判など私には考えられない。

ところが・・・

本当に残念ですし、悲しいニュースでもある。

他種目でも同様なことが見られていますが、どうしてこうなるのか。

カギの一つが、もはや社会に深くひろまり、一部の人には、完全に内面化していると思われる「通俗道徳」の影響なのではと思っています。

「通俗道徳」とは、【努力をしてよいことをしていれば、報われる。報われないであがいている連中は努力が足りないからだ】という考え方です。

上記記事より

誹謗中傷している人も日本チームを応援はしているのでしょう。しかし、それは、結果を出した選手は称賛するが、結果を伴わない場合は、容赦なく批判するというメンタリティなのでしょうか。

今回パリ五輪は、男子バレーボール以外はほとんど見ていないので、この点だけに絞って言及すれば、

あんな面白い、ワクワクするような試合をする選手たちに、結果だけをもってどうして誹謗中傷ができるのか私には理解できません。さらに言えば、批判する人たちは、どういう気持ちで普段生活をしているのだろうかとさえ思ってしまいます。

そう考えると、社会に深く入り込んだ、自己責任論として深く内面化された通俗道徳がいかに根深いかを思いしらされます。

明治維新からの導入された「思想」は多岐にわたりますが、この通俗道徳は、あまり問題視されてこなかったのではと思います。

菅野完さんなどの一部の人たちは問題視されていますし、ジャーナリストの松本創(はじむ)さんもよく言及されていますが、もっとキーワードとして広まってほしいなと思います。


というもの、この通俗道徳を意識するか、しないかで随分と思考が整理されるからです。

例えば自死という背景にいろんな可能性があるものに対しても、軽々に自己責任論を持ち込めば以下のような思考になるし、これをインフルエンサーは利用しがちでもある。

自己責任論を持ち出したくなったとき、これは通俗道徳に感化されていないかと立ち止まることは大事ではないかなと思います。

その時には、結果に運もある。ことを思い出すことは大事ではと思います。

うまくいっても、うまくいかなくても、「運」はある。

そう考えるだけでもこの通俗道徳へ闇落ちせずに済むのではと思っています。
そうすれば、結果が出ない人への見方も変わるのではと思っています。

このまま通俗道徳が内面化した人たちが増えていくと、ポイントオブノーリターンと化すでしょうし、もうそうなっているのかもしれません。

そのときは、どんな社会になってしまうのか。

みんなで支えあう社会の方が、弱者を足蹴りする社会よりはいいものだと多くの人は思っているとは思いますが、一方で、うまくいった自分を過大評価しがちなものも人間の弱さ。そのとき、通俗道徳は、人の心に過剰な自己肯定のスイッチを入れる。

そんな人間のメカニズムは理解しておいて損はないのだろうと今回のパリ五輪でも痛感したところです。

そうしないと、誰もがルーク・スカイウォーカーではなく、ダースベイダーになってしまう。それは大事な理解なのかなと思っています。

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