投稿記事で振り返る2022年(4)【若者の行動から見える新しい時代の萌芽】
年末まで、私の拙稿を通して、この一年を振り返っています。前回はこちら。
塾講師という仕事をしていると、時代とともに変化する高校生の姿を目撃することになります。
そこには、新しい価値観や時代に合った合理的な考えが存在していることも多く、学びというものがたくさん含まれています。
いつの時代も、時代を反映した小説が人々を惹きつけるのも、新しい時代の価値観を理解したいという私たちの渇望が背景にあるのでしょう。石原慎太郎、村上龍、綿矢りさ、朝井リョウ・・・といった作家は時代の要請によって登場した人たちだと言えるのかなと思っています。
拙稿に関する反応にも、新しい時代の若者の姿に、私たちの関心があることに気づかされます。
本稿は、私の投稿としては、とても多くの「スキ」をいただいた記事でした。
男性よりも女性の方が新しいものへの関心も、適応能力も高いなと改めて感じます。古い世代の価値観からすると、「モノ」に対する所有という概念を前提としない思考は、衝撃的でした。
先日、若い男性をお話をする機会があったとき、「自分は、CDを買ったことがないんですよ」と話されていました。当然CDプレイヤーも持っていないのだと・・・。音楽はサブスクリプションサービスで聞くのが当たり前になると好きなアーティストの音楽を所有するという考えにならないのでしょう。ここにも上記の記事と通じる価値観の変化が見られます。必要なのは、いい音楽であり、アーティストではないというとらえ方なのかなと思います。
一方で、何でもかんでもデジタルにアジャストすることでもないことに気づかされたのが、↓の記事でした。
彼らの行動を俯瞰してみると、行動の選択において、「情報」がとても意味を持っているのだろうと思っています。
前者のメルカリの記事についていうと、例えば、音楽をアーティストを通して嗜好するとか、小説を作家を通して評するという根本的な発想の土台が変化しているということです。
所有というのは、自分が好きなものを物理的に実感する方法であるという側面があります。古い世代の私は、所有することで、自分の好きなことを実感しますが、若い彼らは、所有に頼る必要はないのでしょう。カチューシャという物理的な存在があっても、テーマパークでの時間を楽しみ、写真におさめてしまえば、つまり、「情報」としてのカチューシャから得られるものを得てしまえば、あとは所有を必要としないということなのかなと考えています。
後者の記事では、「情報」の必要性があれば、「噂話」というとても人間臭いアナログな価値観であっても貪欲に求めていくという姿が浮かびあがってきます。高校生であっても、そこに社会は存在します。彼らの社会なりに必要な「情報」は、彼らの日常には欠かせぬ存在として鎮座しているのだということなのでしょう。
その意味では、時代は広い意味では、「情報」の時代だと言えるのでしょう。学校教育に「情報」が入ってくるのは、必然以外の何物でもなく、情報をいかに形にしていくかのツールとしてプログラミングなどをはじめとした情報教育は新しい時代を拓く若者には、高い価値を持つものなのだろうと思います。
これからは、情報をもっと広い視野で見ていかねばと思った次第です。
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