「想定」思考は、○○を極限まで追求しない限り危険な思考となりうるのでは?【大阪万博の休憩所は、ダメな意匠だと思う理由】
話題になった大阪万博の休憩所。私も記事にしていますが、
炎上とは言えないものの、かなり批判的に多くの人が指摘しています。私もその一人ですが、その後も、この休憩所はそのまま整備が続いているようです。
そんな中、↓のような指摘がありました。
三菱重工長崎造船所に掲げられている注意喚起の標語のようですね。
書いてあることは、至極当たり前のことです。
わかっていない人はいない。
しかし、三菱重工の方々はこれをあえて掲げている点に現場の知見があるとみるべきでしょう。
人は、危機感をもち、かつ強く意識しない限り
立っている物は、めったに倒れてこない。
吊っている物は、ほとんど落下しない。
高い所にある物は、ちゃんと固定すれ落ちない。
丸い物は、余ほどのことがない限り、転がらない。
動いている物は、避ければ挟まれない。
回転している物には、注意すれば巻き込まれない。
と考えてしまいがちです。
人間には正常性バイアスがあり、かつ危険を「それなりに」想定するので、安全について、「思考の檻」を自ら作ってしまうものです。その結果、あの休憩所についても問題ないだろうと考える人が出てしまうのはある意味やむを得ないところがあります。
問題が発生する確率は、ちゃんとやれば0に近づけるのかもしれません。
しかし、「だから、問題ないという思考は、ダメである」というのが、この三菱重工の現場の方々が出した結論だろうと思っています。
事故というのは、想定を超えることで発生するからだと思っています。
ここのところ、いろんな立場の人がこの「想定」という思考法をとっているようですが、現実には、想定を超えることは、割と起こっているものだと私は理解しています。
想定を生み出す要素は、ちょっとした条件設定(パラメータ)の違いで簡単に覆ってしまうものだからでしょう。
しかし、なぜこの「想定」思考を多くの、とりわけエリートと呼ばれる人たちが好むのかは前々から気になっていました。
それは、何か問題が起こったら、「想定外だった」と言えば済むという。厳しい表現を使えば、「無責任思考」があるのではと思っています。
実際には、無責任では、済みません。当事者は、そのことをわかっておられるのかとても気になります。
この事例で言えば、万が一落石したとき、責任を取る覚悟があるのか。
この休憩所を設計した方は、X(旧Twitter)で、自己満足を加速させたような投稿をされておられますが、事故が起きなかった場合、
「グダグダ指摘するやつらは、考えすぎなんだよ。オレがそんな重要なことを「想定」しなかったと思っているかよ」的な思考で処理されてしまうのかなと思ってもいます。
問題はそうではなく、「どんなことが起こっても」安全であることが、施設設計の大前提であるべきで、この意匠は、絶対落石が起こらないことを前提とすることができないから、私は「意匠としてもダメである」と思っています。
私は想定は、「想定以上にに厳しく想定されるべきだ」と思います。禅問答のような表現ですが、極限まで「最悪を想定すること」に固執できる思考力こそ、エリートにふさわしい思考だと思っています。
その意味で、昨今の「甘すぎる想定」には違和感が大きいなと感じます。
繰り返しますが、この意匠は、「甘すぎる想定」という点で、工業意匠としては、落第だと思っています。
なぜなら、極限まで最悪を想定したのであれば、それを語ることができるはずです。
自然物に人為的穴をあけたのであれば、結晶の分野でのクラックの実験データくらいは出してもらいたいですし、パラメータを変えた、振動実験のデータもいるでしょう。
そして、何より、万が一落石したとき、危険を回避する仕組みがないことが致命的です。途中にアクリル板などを置き、落石物を衝突によって飛散させるような仕組みすらない。
自己満足の意匠を安全より優位な概念と置いていることは、私は容認できるレベルではないと思います。
結果的に問題が起こらなかったということと、どんなことがあっても問題が起こらないといえるというのは、全く次元の異なることなのですから。
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