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どこにでもある話。




◯どこにでもある話。

 その出会いは本当にどこにでもあるようなものだった。十代半ばの私達は青春のわずか一年間のみ同じ学び屋で過ごした。そしてどこにでもあるような恋をして、どこにでもある別れを迎える。ただ一つ、別れ際に発したその一言により、その存在は私の生涯において精神的支柱となった。
 私という人間は平凡な中流階級の家に生まれた。その家庭が少しずつ崩れ始めたのは、時の首相の政策によるものだったといってもいい。多くの家庭がそうであったように、私の家庭も余波を受けた。父は職を失い、母は勤め先で事故に遭った。助かったはいいものの、その顔はぐちゃぐちゃになった。上の姉は父と対立し、次女は家を出て行った。
 そんな折り私は近くのプールに行って、溺れかけた。一緒に行った父はその事に気付かなかった。私は隣のコースで泳いでいた男に助けられた。そしてその場にいなかった父にその事を伝えようとした途端、男は私の腕を掴んだ。その力はどんどん強くなっていった。ありがとうなんて言うんじゃなかった。何度そう思ったことだろう。
 私は十歳で死んだ。
 シャワー室に連れて行かれて。
 そんな私のどこにでもあるような話を聞いて、彼は別れ際にこう行った。
「そんなん、どこにでもあるような話やん。でも―」
 どこにでもあるような話。その言葉を聞いて私はふっと笑ってしまった。彼ならそう言うと分かっていたから。
 彼もまたどこにでもあるような話を持っている人だった。
 彼には自分の知らないところに兄弟が八人いる。唯一知っている姉の真奈まなさんとは九つ違いで、(信憑性さえ疑わなければ、)彼が末っ子という事らしい。同腹の父親違い。彼はそんな母のことを
「人生を楽しむのが得意な人」
 と言った。人を愛する事に重きを置く彼女は、愛情を子供にではなく男に注いだ。彼が五歳になると母は消えた。十四歳にしては少々大人びた姉を傍に残して。姉はそういった経験をするのが初めてではなかった。母が再び戻って来たのは、彼が十歳になってからだという。
 私達が初めて会ったのは、その数年後だった。初めて会ったとき、彼は学生にとって必需の筆箱の裏におかしな言葉を書いていて、それをことあるごとに皆に見せびらかしていた。
『俺に任せろ』
 意味が分からなかった。今も意味が分からない。彼は、全学年の生徒と一回は喋るという謎の目標を立てていた。その目標が達成されたのかどうかは不明だが、私も漏れ無く含まれていた。
 とりとめもない長所に惹かれて
 とりとめもない短所に躓いて別れた。
 そしてもう二度と会う事もなかった。
 あの日が来るまでは。


 その日、街に大きな地震が起きた。当時の事は様々な記録に残っているのでそこまで記す必要はないと思うが、その日は、私達が学び屋を離れて何年くらい経った頃だろう。はっきりした事は覚えていない。彼の顔も、過ごした時間も。最後の言葉以外は思い出すことすらなかった。それくらい私は日常を平凡に過ごしていた。その日常を、多くの人が奪われた。その時 既に私の両親は離婚をしていて次女は消息を絶ったままだった。上の姉はというと苦労しそうな男との間に子供をつくって出て行った。私は自分の経験上、発作的にこう思ってしまった。(あんただけ幸せになるなんて許せない)私は自分の卑しさが後ろめたくて、上の姉ともその子供とも、目を見てまともに話す事が出来ない。ろくに定職にも就かず、ただ何となくその居心地の良さから、小さな洋食屋で小銭を稼ぐ日々。それが私の日常だった。
 そんな居心地の良い勤め先も、母と二人で暮らした木造の平屋も、全てなくなった。かつて家族として過ごした人たちは後に無事と分かったけど私は全てを失った。目の前にあったのは現実味のない現実だけで、これから先どころか今すらどうすればいいか分からない状況の中で、その声を聞いた。
「なっちゃん!!」
 とても怖い夢を見ているようだった。
 誰かが泣いていたりいかっていたり、何ともいえないにおいがして、黒い煙があがって、救急車か消防車かのサイレンの音がして。生きているのかそうでないのか分からない人がケガをしていたりして。それでよく彼は私を見つけたと思う。私と彼は地元が同じ幼なじみという訳ではない。地元がほんの少し近くだった二人は、避難所となっていた私の出身小学校で再会した。私は彼と目が合って逃げようとした。全てを失って体育館で生活していかなければならない自分を、いや、子供の時に既に何もかも失っているというのに尚ものうのうと生きながらえてしまっている自分を。かつて付き合った人だからという理由ではなく、私を知っている人間に誰にも見つけて欲しくなかった。
「待って!!」
 血相を変えて彼は私の腕を掴んだ。そしてすぐさま(しまった)という顔をして手を離した。余裕はなかった。恐らく二人とも。
「母さん、知らん?」
「えっ?」
 彼は私に母の写真を見せてきて知らないかと尋ねてきた。私は知らないと突っ撥ねてその場を去った。ものの数秒の再会だった。


 それから数日後、一ヶ月は経っていなかったと思う。三週間位経った頃だろうか。避難生活のイライラがたまった私は、些細な事で母と衝突した。母はかつての事故で顔はぐちゃぐちゃになっていたが、今では事故でぐちゃぐちゃになったのか、将又歳がいってしわくちゃになったのかよく分からない顔つきになっている。
 家族というのは得てしてめんどくさい。
 それもまた、どこにでもよくある話である。
 私はそのまま学校から飛び出した。一時間程で戻るつもりだったが、気分がそうさせてはくれなかった。年齢的には大人だし、行く所くらいはある。何とかなると思っていたが街の変わり様を見るだけとなってしまった。土地勘のある人間ですら、感覚が鈍りそうだった。
 沈みかかる夕日を、街でいちばん夕日がキレイに見える大きな橋(といっても橋も崩れていたが)で眺めていると、私の名前を馴れ馴れしく呼ぶ、あの声がした。振り返ると、相も変わらず彼はヘラヘラしていた。そして相も変わらず、私は彼に対して冷たかった。
「何してるん?」
 彼から視線を外し、引き続き夕日を見た。
「歩き疲れたから休んでる。」
 事実のみを答えた。
「そっか」
 当たり前のように私の隣に彼が座ると、私も当たり前のように間隔をあけて座り直した。彼は吹き出して、相変わらずおもろいわと言った。彼にはまだ笑うだけの力があった。私は彼の言葉に返すこともなく、ただじっと同じ方向を眺めていた。なんで出会うんやろう、そんな疑問を心がつぶやいたが口には出さなかった。ついでに何でここにいるのかという疑問も沸いた。しかしそれは聞かなくても分かる気がした。二人共ここから見る夕日が好きだった。だからといって、思い出の場所ではなかった。この街で生きる人は皆ここが好きだった。何もない街で何かあるとすれば、この橋から見る夕日くらいだった。今は本当に何もなくなってしまったけれど、それでもどうしてこんなにも、こんなにも見てしまうのだろう。

「母さん見つかってん」



「そう…」
 会話が出来た。数日前に比べたら落ち着いていたと思う。


「…良かったやん、生きてて」
 生きててよかった。人にはそう言ったけど本当にそうなんだろうか。無責任なら何でも言える。そんなものかと思った。

 私は、たまらなくなった。もう何もかもがたまらなくなって、彼の背中にもたれてしまった。左頬と頭をくっつけさせてしまった。私は、さっきの母との衝突やりとりを思い出していた。そしてぽつりと口にした。
「家族ってさ、本当めんどくさいよね」
「うん、本当めんどくさい」
 本当に、何でこんなにめんどくさいのだろう。
 私は彼の背中から離れた。

「そろそろ行くわ」
 彼はうんと言って、そのまま夕日を眺めつづけている。少しずつ、その場を離れていく。
 その時、身体が大きくぐらついた。ここ数日の精神的動揺が急にここへ来て全て足元へやって来て、足がぐねったのだと思った。
「なに?また?」
 でも違った。予震が来た。
 咄嗟に彼が私を支えてくれた。めまいや立ち眩みの感覚とは明らかに違う強さがあった。それでもその揺れは予震だった。吊り橋効果なんて言葉は心に余裕のある人間が作ったとしか思えない。地震が、全てを奪った人間からさらに奪えるものはないかと、やって来たのだと思った。揺れがおさまると彼は言った。
「行こう。」
「どこへ?」
「高台に決まってるやろ。」
 私と彼は、とりあえず橋から離れて高い所へと向かった。橋から遠ざかる時、橋の下を流れる川の水面みなもばかりを注目していた記憶がある。
 高台には同じような人が何人かいた。やがて安全が確認出来るとばらばらと解散していった。そこでようやく私は気が付いた。私は彼と手をつないでいた。
「あ"ーもうお腹すいたっ。じゃあね」
 私はその手を振りほどいて歩き出した。本当に、何でお腹は減るのだろう。
「どこ行くん?」
「ごはん!!」
 彼の顔が見なくてもニヤリとしたのが分かる。
「お、炊き出し。いいねぇ」
「ついて来んといてや」
 私はパーカーのポケットに両手をつっこんで歩みを止めぬままにそう言った。
「いいやん別に」
 しかしこの後、彼は私について来たことを後悔する。
「…なぁ、道合ってる?」
「…。」
「なぁって。街からどんどん離れてない?」
「当たり前やん、どんどん離れていってるねんから。」
「はぁ"!?どういうこと!?」
 私は母の待つ家(つまりは小学校)には戻りたくなかった。だからわざわざ距離のある隣街の小学校を目指している。
「…そんなん行き帰りだけでお腹減るやん。」
「だからついて来るなって予めあらかじめ言うたやん。」
 何も言えない彼である。
「嫌やったら帰り」
「相変わらず性格きついなぁ」
「あんたに対してだけな」
「でもまぁ、そういうとこが好きやってんけどな」
「知ってる。」
「出たっ。自分何なん?」
「なにが?」
「そういう所…変わらんなぁ」
「お互いにね」
 私達が十代だった頃、彼は必死に私を振り向かせようと、よく一般的に人がどきどきしそうな甘い言葉を囁いてきた。しかし私はそんな必死な彼にへどが出て、毎回あしらっていた。恋愛などという面倒な感情は自分にぶつけないでほしい。余所でやってくれと思っていた。恋愛にまつわるあらゆる欲求のせいで、私は全てを失ったのだからと。それでも彼はこちらの事情を知ることもなく、ただただ好きだと言い続けた。そしてあるときから私は事実のみを彼に伝えるようになった。
「知ってる。」
 あなたが私を好きな事は知っている。そういう意味で使ったのだけど、彼は何が良かったのか、そのやりとりを気に入るようになった。
「そういう所、好きやで」
「知ってる。」
 次第にそれは私達の決まり文句となっていった。



 隣街の小学校の炊き出しで、豚汁をもらった。湯気がもくもくと空に上がって、一口飲むと身体に出汁だしが染みていった。あ"ーっと一息吐くと、白い息も空へ上がっていった。(いいよなぁ、お前は生きているから)とどこかから聞こえて来そうだった。
「相変わらず、美味しそうに食べるなぁ」
 見ると彼は豚汁に手をつけていなかった。
「食べへんの? ここまで来て? 何しに来たん?」
「食べるよっ。食べるけど、熱いねん。」
 そういえば彼は、私の母と同じ猫舌だった。
「すぐ冷めるよ」
「俺の気持ちは冷めへんけどな」
「そうやって一生、うなされといたらええねん」
「きつっ」
「何ならその豚汁、口の中に注いだろか?」
「怖っ」
「自分、ほんま そういう所あるから気つけや。」
「やかましいわ。俺の友達と全く同じ事言うやん。もしかして連絡取ってんの?」
「取ってへん。そもそも何年ぶりに会ったと思ってんのよ。」
「俺となっちゃんが十代の頃やから…」
「数えるなっ 」
 その時、知らない笑い声がした。見るとそこに知らないおばあちゃんがいた。
「ごめんなさいね。聞くつもりはなかったのだけど、何だか夫婦めおと漫才みたいね。フフフッ」
 夫婦めおとでも漫才でもないと言いたかったけど、あまりに楽しげに笑っていたので何も言えなかった。
「お礼に、これ。少ないけど、がんばろうね。」
 そう言っておばあちゃんは、私達の手に一つずつみかんを置いてくれた。自らも被災しているはずなのに。
 私はこの有事を不謹慎にもどこかわくわくしていた。それはこの震災当時小学生だった子供が、後に大人になってその時の事を
「日常と違って、ちょっとわくわくした。学校に行かなくてもいいし。」
 と語ったわくわくとは違っていたと思う。あなたといるだけでただ楽しい。恋の序盤に感じるわくわくだったのかもしれない。炊き出しの道中も、豚汁に並ぶ行列も、隣で並んで食べているときも、高台で気付いてもしばらくはどちらともなく離すことをしなかった互いの手も、すべて、すべてどこか楽しんでいた。
 そして反面、自分は決していい人間ではないと感じていた。



 再び私達は、橋へと戻って来た。もううに日は暮れていた。震災は街に静寂をもたらし、灯りを取り上げた。ふわふわとまるで夢の中にいた私に(いや私達に)、現実は残酷なまでに私達が今を生きていて、生き残ってしまっていて、そしてこの先もどうすればよいのか分からぬまま、生きてゆかねばならぬという事を、ただそれだけを突きつけていた。どうでもいい事なら言えるのに、どうしてこうも無口になってしまうのだろう。彼の手からするりと私の手が落ちるようにして外れた。そしてそこへ来てまた、彼と手をつないでいたんだと知った。ベンチに座った私に彼は何か言いかけた。
「あのさぁ、もしよかったら…」
 恐らく言おうとした言葉は、
 その時、背後に一台の白い車が停まった。
「奈津子!!」
 中から出て来たのは親友の由紀子だった。彼女は私を見つけて抱きしめた。
「何やってんのよ。心配してんで、また予震は来るし。どこ行ってたんよっ。」
「ごめん。」
「おばちゃんが心配して連絡して来てん。」
「そう。ごめん、心配かけて。」
「帰ろう。今日うち泊まる? ケンカしたんやろ?」
 強引な彼女は私を連れて歩き出した。
「あのさぁ、由紀子」
「あれ? 誰、知り合い?」
 由紀子はそこへ来て、ようやく彼の存在に気がついた。
「良かったねぇ、なっちゃん。お迎えが来て。」
 彼は変わらずヘラヘラしていた。私はそうはさせるかと思って、由紀子の腕を引いて歩き出した。

 由紀子は私が十歳で死んだ事を知っている。私にとっての彼という存在も知っている。しかし、彼の顔を見た事がなかった。後に由紀子は、このときに見た彼の様子について
「意外にチャラい感じの人だったね」
 と言った。彼はどんな時でも常にヘラヘラしている。ヘラヘラしすぎて、チャラいと勘違いされてしまうのだろう。学び屋にいた頃、人を笑わせようとして逆に傷付けてしまう事が多々あった。実際当時の同級生の何人かは、彼を快く思っていなかったと思う。そこまでして彼がヘラヘラと、ムードメーカーになろうと目立つことや笑いに重きを置いたのは。笑わなければ仕方のない現実に対して、開き直るためだったのかもしれない。もしくは大人しくて無口のままでいたら、人様の家で次から寝食が得られないかもしれないという幼心に抱いた不安の名残なごりだったのかもしれない。
 しかし時間の経過は彼に無理をすると相手も自分もしんどいのだという事を学ばせてくれたのだと思う。再会する前よりずっと、自然で柔らかく懐が深い人物になっていた。


 今、私は彼の家にいる。
 親友の由紀子の家ではなく、彼の家にいる。

 彼は家の倒壊を免れた『いえある組』だった。そういう表現があるのかどうかは知らないけれど、同じ被災する者が、同じく被災する他者を、そういった言葉で無意識のうちに傷付けていた。少なくとも私はそういうことをしていた。人は無意識のうちに誰かを傷付ける。そして傷付きもする。
「いいよねぇ、家があるから」
 家があってもライフラインが通っているとは限らない。身内の安否も分からない。仕事だってどうなるか分からない。由紀子も家ある組だったけど、彼にも由紀子にもそういう言葉を言って傷付けてしまったと思う。
 皆が不安の中にいるというのに。慮る心が欠けていた。それでも由紀子は私の腹心の友でいてくれた。だからあのとき、とんでもないお願いを引き受けてくれた。
「由紀子、今晩うちに泊めてほしい」
「うん、いいよ。」
「泊めたという事にしておいてほしい」
「えっ?」
 一体誰に対する後ろめたさだったのだろう。よく分からない。それでもこの瞬間、由紀子は私の共犯者になってくれた。


「なぁ、聞いてる?」
「聞いてない」
 気付くと彼は一方的に喋っていた。
「だから、こっちおいでや」
 出た。彼はまた私に、出来ない事をさせようとする。
「いやや」
「なんで?」
「ことわる」
「なんでなん?」
 彼は自分のベットで横になっている。私はというと、何ともいえない調度いい距離にあるソファで横になっている。貰ったみかんをパーカーのポケットから出そうかどうしようか悩みながら、思った事をそのまま口にした。
「脚、伸ばして寝られるだけで、幸せやから。」
 今の家では何かと気を遣う。まぁ、私だけではないのだけれど。
「 そっか。」
 この薄暗がりの中、彼は一体どんな顔をしているのだろう。どんな気持ちで、そっか・・・と言ったのだろう。見ようと思えば見られるのだけれど。
 結局みかんは小振りだったので邪魔にはならず、そのままにしておくことにした。
「…でも、もっと幸せになっていい?」
「えっ?」
 私はソファから手を伸ばし、彼の手をそっと握った。


「そんなん、どこにでもあるような話やん。」
 彼と別れるとき、私は自分の身に起きた耐え難い出来事を話した。その時、彼はそう言って更にこうも言った。
「でも、世の中の男、みんながみんなそうじゃないってことだけは覚えといてほしい。」
 彼は私の目をじっと見ていた。
「分かった。」
 彼と別れてからその言葉が、その言葉だけが私の支柱となった。彼はその言葉を伝える為だけに私と出会い、煩わしくもわざわざ恋までしてくれたのかもしれない。本気でそう思った。 そしてこの夜、彼は身を持ってその言葉を証明してくれた。
 世の中の男、皆がみんなそうじゃない。
 彼は私の手を握ったまま、すやすやと眠ってしまった。まるで大事なものでも抱えるように。眠る寸前、彼は私に尋ねた。
「 幸せ?」
「えっ?」
 そして握る手にそっと力を加えた。
「これで幸せ?」
 嘘は、言えなかった。
「うん」
「なっちゃん…」
「うん?」
「俺の方が幸せ…」
 そのまま眠りに落ちた。私はたまらなく、たまらなく。愛おしくなった。愛しくてたまらなくなった。
 だから私はどうしてもここに認めておきたい。しんしんと、まるで埋み火のように温めつづけてきた心根を、この身すら焦がしかねない本心を、この手記をもって誰にともなく。誰にともなく。


 



 あの日、橋のたもとで再会した時。私の心は何で出会うんやろうとつぶやいた。


「母さん、見つかってん。」
「そう…  それで?」
「それで?」
「生きてたん?」
「生きてた…、それどんな質問なん?」
「…だって、見つかったって言い方するから。…遺体かなって。」
「そっか。 気遣わしてごめん」
「別に。…良かったやん、生きてて」
 わずかな沈黙の後、先に立ち上がったのはやはり私の方だった。
「そろそろ行くわ。」
 歩き出した私に彼は言う。
「なんで?」
「なんでって質問おかしくない?」
「そうやけど…なんでなん?」
「…何が?」
「何でこんな時に、なっちゃんに出会うん?」
 どきりとした。知らんよ、そんなこと。
 彼は自分に対してそう言った。私はどうしてこんなにも、彼の事なら分かってしまうのだろう。どうしてこんなにも彼のことなら知ってる・・・・のだろう。
 彼は夕日に向かって真っ直ぐ座っていた。私はもう一度座り直した。さっきまで右側に夕日を浴びていたけど、今は自分の左側に彼の背中がある。その背中が、私から夕日を遮っている。
 私もそうだった。
 人には吐き出さなければ前に進めない事もある。何も言わなくても察してしまうけど、かつて彼がそうしてくれたように、私もそうするべきだと思った。
「何があったん?」
 切り出しやすいようにはした。後は彼が決める事だった。
「 生きてたのは良かってんけどな――」
 彼が選んだのは、吐き出すという事だった。そして始めはぽつりぽつりと、やがては滔々とうとうとまるで物語のあらすじでも語るかのように話し始めた。

 彼のお母さんは生きていた。生きていたけどこの街を飛び出して、全く違う地方にいた。そこには彼のお母さんの、三番目の元旦那がいた。その元旦那は土木関係の会社を経営しているらしく、奥さんも跡を継いでくれる息子もいるらしい。そこに元妻である彼の母が現れた。そして再び焼け木杭ぼっくいに火が付いた、などという展開にはならず・・・
「…ならず・・・?」
「本人はそう言ってる。」
 いかにも疑っているようだった。そしてその疑いは元旦那の奥さんも抱いたようで、二人の間に何があったのかは知らないが、奥さんは半狂乱になった。今すぐ出て行けという奥さんに対し、彼のお母さんは、それが被災した人間に向かって言う言葉かと罵った。被災、そんな所で今回の地震を使わないでほしいと私は思った。収拾のつかなくなった元旦那は、彼の姉に迎えに来るように連絡を寄越した。
「お姉さんは?」
 元気にしているのだろうか。
「廃人になってる」
「はいじん?」
 言ってる意味が理解出来なかった。
「あの日、子供ら三人とも元旦那のとこに遊びに行っててな。 一人だけ、あかんかったん。」
 彼は甥を一人亡くしていた。姉の元旦那もだめだった。元旦那は、息子を被うような形で見つかったらしい。そして彼は姉の代わりに母を迎えに行く事になった。しかし母はそれを拒んだ。人に助けてもらわなければやっていけないような場所には戻らないと言ったそうだ。
 今、あの頃の事を振返り、こうして箸にも棒にもかからない内容をしたためる私は、当時よりは年齢を重ねた。そしてまがりなりにも経験を重ねてきた。その私が思うに彼女は、つまりは彼の母という人は、このときただ災害という困難から逃げたかっただけだと思う。子育てという現実から逃げつづけてきたように。


 彼は見知らぬ土地で途方に暮れた。彼がぼんやりと感じたのは、震災に対する認識の格差だったという。報道機関がどれだけ発信しようとも、足りないと、何だか他人事みたいだなと思ったと言っていた。そして彼は仕方ないか、他人事だからと言って笑った。
 そんな彼に手を差し伸べてくれたのが、例の三番目の元旦那だった。とりあえず飯を食え、とりあえず風呂入れ、とりあえず寝ろ。そう言われて彼は、困惑しながらも甘えてしまった。甘えてよかったんだよ、と言う私の言葉に彼は何も反応しなかった。この人が本当に母を迎えに来いと言った人なのだろうかと彼は思った。彼は何だかんだとその人に気に入られてしまった。私はもしかしてと思ったが、彼ははっきりと違うと言った。その人は、彼のお父さんではない人だった。彼が何故気に入られたかというとこれもまたよくある話で、跡を継いでくれる息子がかなりの放蕩だったかららしい。
 二人の関係を見た母は、働かしてもらってはどうかと提案しだした。彼はいい加減にしろと怒鳴った。しかし元旦那は本当に働いてみないかと持ち掛けた。震災でこれから何かと大変だと思うから、うちでしばらく働けば重労働だが給料はいい。住む処も従業員の寮があると。その時彼が考えたのは、姉と生き残った二人の姪と甥の事だった。どうなるか分からない状況の中で幸運にも仕事がある。彼は様々な事を考えた。本業の飲食も、正直いつ再開出来るか分からない。そこに浸け込むかのように、母はとどめの一言を刺した。
「生きていく為なんだから仕方のないことだわ。がんばろう。・・・・・
 彼の心は折れてしまった。
 生きていく為。それは彼女が生きていく為だろう。
 なぜそんな厄介な所に行ったのかという常識的な質問が通らないのであれば、せめて何故、街を抜け出しての命からがらの避難が、家族を連れての避難ではなかったのか。何故直ちに自分は生きていると知らせなかったのか。街が揺れたあの日、私は自分も混乱してたけど、母を必死になって避難所という避難所を捜しまわっていた彼の姿を知っている。私の腕を掴んでまで。余裕のないあの表情は今も目に焼きついて離れない。
 許せない。
 子供を物同然に扱って、どこまでも振り回す。成人しているのに未だ親に振り回される彼にも腹が立った。かつて抱いた感情が、まさかこんな所で再燃するなんて思いもしなかった。
 私は自分の目線の先にある彼の背中をみていた。服の繊維まで見えるんじゃないかという位、見ていた。
 そして思った。思わずにはいられなかった。
 どうして彼なんだと。私を好きだと言ってくれた人のお母さんが、どうしてそんな人なんだと。
 学生時代に彼が見せてくれた、五歳の男の子が夜の公園のブランコで遊んでいる写真を思い出すだけで。胸がぎゅっとなる。一緒にテレビを観るだけで、あぁでもないこうでもないと言うだけで、こんな経験した事ないと彼は言う。私は普通にしているだけなのに、彼のその一言ひとことに重みを感じてぎゅっとなる。そしてぎゅっとなる度に、彼のお母さんを許せないと思ってしまう。だけど。
 家族でも友人でもない。増してや恋人でもない。赤の他人の私が、彼の親を悪く言うことなんて出来やしない。身内の悪口を自分から言う人はいても、他人から言われていい顔をする人は少ない。彼も、そんなこと望んではいない。互いに相手を(少なくとも私は彼を、)かわいそうだと思いながら一緒に居るのは、なんかちがう。
 息が、出来なくなりそうだった。


 しかし。私は知っている。
 彼は決して不憫ではない。
 私も決して不憫ではない。
 彼の言う通りなのだ。私たちの話はどこにでもあるような事なのだ。知ってる。そんな彼だからこそ言えた言葉なのだと。獣のようになる私の感情を、彼は言葉ひとつで人間へと引き戻す。あの母親だったから、この息子が生まれた。この息子だったから、その言葉が言えた。その言葉があるから私は何とかバランスを取っている。知ってる。分かってる。分かっているけど、 許せない。許せない自分の心の狭さにはもっと許せない。
 彼の言葉は私の心をあたためてきた。しんしんと、あたため続けてきた。だが今それがじりじりと、くすぶっていた埋み火から出火するかのように、この身すら焦がしかねない。焦がれることがこんなにも、心焦がすことなんて。



「しかも出発、明日やねん」
 彼は、こちらを向くことなくそう言った。
「えらい急やね」
 明日彼はこの街を出て、母と元旦那のいる地方へと向かう。思えば彼の人生はいつも急だ。急に母がいなくなったと思えば急に戻って来て、急に姉が結婚して出産したかと思えば離婚して、急に姪甥の面倒をみることになる。私との出会いも、急だったのだろうか。
「お姉さん達は?」
「連れて行きたいけど今は動かす事が出来へん。ほんまにもう、あっちもこっちも ややこしわ。」
 思わず笑ってしまった。彼が振り返ろうとする。夕日に照らされた横顔がちらりと見えた。
「あ、ごめん」
「ううん。やっとろた。」
「え?」
「久しぶりに人の笑う声聞いた。」
 何て言えばいいか分からなかった。
「とりあえず三カ月。皆の生活が成り立つまでかな。」
 生活が成り立つまで。彼のことだから長くつづけてしまいそうな気がする。
「そう」
 私はふと地面に目を落とした。そして自分の母を思った。些いなことで衝突した母、そしてそのきっかけを思い出し、また腹が立ち、目の前にいる彼とその母を思った。
 くされ縁。私と彼は鎖がさびてしまう程、長く一緒にはいなかったけど、
 切っても切り離せないものというのはどうしてこうもこんなにももどかしいのだろう。
 身内も、過去も、出会いというのも。
 だから私は言った。たまらなくて。何もかもがたまらなくて、彼の背中にもたれて言った。
「家族ってさ、本当めんどくさいよね。」
「うん、本当めんどくさい。」
 悲しいわけでもない。つらいわけじゃない。楽しいわけでもない。ただただ二人ともたまらなくて、そう言った。




 朝になって、彼はまだ私の手を握っている。そんなに大事なものなのだろうか。その手を、起こさないようにするりと外した。本当はここに来るつもりなんて更々なかった。それなのに彼がヘラヘラするから。由紀子が来た時にお迎えが来てよかったねなんて言い方をするから。あぁ大丈夫ではないのだなと分かってしまった。これからどうなるか分からない不安に押し潰されそうなのは、私も彼も同じだというのに、何やってるんだろうとぼんやり思った。
 見送るのも見送られるのも何だか違う。そのまま消えることにした。その時ふと学生時代に授業でやった『雨月うげつ物語』という古い古い話を思い出した。
 夫が一旗上げようと妻を残して旅に出る。七年後、妻はもういないかもしれないと思いながらも家に着くと、変わらず妻はそこにいて、夫婦で一晩過ごす。翌日夫が目を覚ますと、そこは荒れ果てたかつての住処で、妻の姿はどこにもなく、実はすでに亡くなっていたという話。
 彼が目を覚ました時、その夫のように夢だったのかもしれないなんて思うのだろうか。しかし物語と違うのは、私は紛れもなく生きているということだ。
 玄関に向かうと大きな荷物があった。ここに来た時も目立っていたけど、明らかに修学旅行で使うような鞄だった。そこには修学旅行のようなわくわくはなく、彼の現実が詰まっているようだった。
 玄関から外へ出ようドアノブに手をかけた。爪先つまさきをとんとんさせながら、もう片方の手を、またいつもの癖でポケットの中につっこんだ。
 そして足を止めた。
 私はその現実の中に、昨日見ず知らずのおばあちゃんから貰ったみかんを入れて、家を出た。



完。



◯その揺れの後

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