学舎の諸君!!
【学舎の諸君!!】
1+1=なんで 2…?
そんな疑問を持つ人がいた。小学校の初めに習う算数で クラスにそんな事を言う者がいたら、授業が進みゃしない。混乱する。そんなドラマを観た。(エジソンの母)
離れてみる大人は、そんな疑問を抱くなんて偉いねと思うかもしれない。近くにいる大人は困惑するだろう。
「距離を置いてみればそれなりにかわいいやつなんですが…」というBBクイーンズの歌のとおりだ。
同級生同士なら、これまたうっとうしぃて仕方ないだろう。
だから大人は言う。とりあえず覚えなさい。
だが、このとりあえず覚えなさいは、時と場合によっては じつは かなり危険なことばだと思う。
セクシャルなマイノリティがあるように、教育にもマイノリティ(少数派)がいる。
マジョリティ(多数派)には、細かいなと思われる所が気になって仕方がなく、そこで躓き 先には進めない。いつしかどこで躓いたのかも分からなくなってしまう。
だからといってこの少数派のために、全体の流れを滞らせるのは良くない。だが良き塩梅で。そんな人もいるよというお話だ。どっちがいいとかの話じゃなくて、そんな人もいるよというお話。
「ここ、覚えておいたら後は楽だから」というのは、結果を先に知っている人だから言える、合理的な考えだ。
それは、オセロのルールを全く知らない人にいきなり「角をとれ、角を」と言っているようなもので、(はぁ?)となる。
教えられている側(ゲーム初心者)は、後々どのような展開になるのか分かっていない。地図も知らないのに言われてもと思う。そして、一部の素直さのない「かわいくない」と言われる、(マイノリティの中でも更なる)マイノリティは思うのだ。
( 後々、楽の楽というのは、教える側にとっての楽ということですか?)と。
ここまで深く思うことをしなくてもだ。年端の行かぬ思考も語彙も未熟なマイノリティは、無意識にいる。本人が自覚していないだけで、おそらく自らを阿保という固定概念で、純粋な「学ぶ」楽しさを知らず諦めて。周りとおなじで居ようとする。
「とりあえず覚えなさい」は、時に本人が、ぎもんに思う “ 切っ掛け ” を摘み取ることになる。摘み取られ過ぎると、自らで疑問に思うこともなくなる。質問はありますかという投げ掛けにシーンとなるのは、何が分からないのかすらも分からない。摘み取られ過ぎて、疑問に思う力のない証拠である。
そして、かなしいが 何か質問はありますか。分からない所は聞いてくださいという投げ掛けをする人ほど、その疑問を摘む傾向にある。 当世風のことばで現せば、「ずるい言葉」なのだ。なんでも聞いてねと優しいふりをしたテイカーなのだ。(質問はあとでお答えしますので、その都度ぎもんに思ったことは、メモしておいてくださいね…が、今のところの正解。※今のところ )
「…あなた方は理科や科学はきらいかもしれない。だが私たちの生活はその科学の進歩で成り立っているの。」
かつて、お門違いなタイミングで返答をされたことがある。ひと言も科学や理科がきらいとは言っていない、全体(クラス)に対しこんなことを言われた。無意識に(あ、みんなきらいなのかな)とか思う。
私達が(…というか 私が) ぎもんに思い、きもちわるくて、その先に進めなかったのは。元素記号の周期表の空欄がなぜ、空いているのかという事だ。質問はしなかった。何故なら「とりあえず覚えなさい」と言われるからに違いないから。
疑問は、クラスという小さな世界の中では「うっとうしぃ」とされるのだ。
だけど大人になって。元素記号の周期表を見たとき。水兵リーベェーのあの先にもたくさんの記号、元素があると知った時。改めてノートに書き記した。
書き記して満足した。ところが、何年も経ってそれを見返すと、なんかおかしい。なにが? 調べた。
枡目(間隔)を空けるのが勿体ないような気がして、ぎぎゅっと詰めて記したもんだから、ロケット鉛筆方式でちょっとずつ、ずれている。
そう、合ってはいるんだけれど、間違ってもいる。
なんでこうなった?手繰り寄せてみたら、あの時の、あのぎもんをそのままにしておいたからだと思った。そしてその疑問の答えは、今のところまだ納得していない。
そんなぎもんは、たくさんある。
旧約聖書(ヘブライ語聖書とも言うらしい)の、アブラハムの旅するところで カナンという所を目指すやつ。出発地点のウルから、なんでハランに行ったのか。地図で見たら、超・超・超 遠回り。大阪から石川県に向かうのに、一回 東京と北海道を経由している感じ。(感覚。)
昔々の歴史において、首都をウルやウルクなんて所にしたとある。なんでその場所にしたの?海近い方が発展するくないかと思っていた。(これはもう解決した、自分の中で。)
どの花見てもきれいだな ならば何故チューリップに特化する歌を作ったのか。
エリザベートもエリザベス一世も男運のない女性なのに、なぜ人は惹かれるのか。
そんな疑問はいくらでもある。
そして私ははたと気付く。
だから、発信しようと思う。
今現在、なんか もやもやするけれど、語彙力不足により、その実態の分からない学舎の諸君。聞こえるかい?
きみが思うそのぎもんはね、またの名を『学問』というんだよ。
今のところ、あぁ今のところ。私が思う。学ぶについて触れようと思う。
まず初めに。『勉強』は強いるもの。『学習』はまねること。(漢字ドリルとか) そして『学問』は、自分で疑問に思うことを自らで学ぶことだ。
そして、ここに余談だけれどももうひとつ。『べんきょ-』というものがある。それは、誰に強いられる事もなく自分で学んだことを土台に、ふざけ散らかしあそぶことだ。(こ、こんなおとなにはなるなよ( ̄▽ ̄;) )
きみのぎもんは、学問だ。
きみの疑問は、学問だ。
そのぎもんは、自分で調べて解決するしか方法はないらしい。ただ抱いた疑問を口にするだけでは、相手の時間(クラスの授業時間)を奪ってしまう事になるんだよ。しんどいよね、めんどくさいよね。うっとうしぃよね、自分で自分のその性質。
『細かいところが気になるものでして』という台詞は、杉下右京だけで十分なのにね。抱いた疑問は、一旦心にメモをして大事にしておくといいよ。ぎもんは『解決することだけ』が、解決法とも限らないのだから。
まぁ~た、うっとうしぃこと言ってるわと思うよね。私ときみは、合せ鏡さ。
そして、世間には、度を越してうっとうしぃ奴(諸先輩方)がたくさんいるよ。しんぱいしなくても、やベェ奴はたくさんいるから。(あ…自分、ふつうだわ)と思うから、安心して大いに某かに励み給え。
度を越えたやベェ奴が、アインシュタインだったり…あとなんだ。パッと出てこないが、細かすぎてしんどいやろなと思う千原ジュニアと呼ばれる人だったり。いろいろいるのさ。
腹筋がある人と、ない人の違い程度で、疑問に思う人と思わない人がいて。どちらがいい、わるいじゃないんだよ。ただその程度の違い。
一度でも純粋な「学ぶ」楽しさを経験したことのある者は、周りとおなじではいられない。
誠のあほうは、そんなんでいられるはずはない。阿保じゃない。あほなんだ。気付くことによって楽になるなら早いこと、気付きなさい。例えそれがダサくても、傍に誰も居なくても。自分が心の底からおもしろいと思ったことを捨てるということだけは出来ない。(これGREE一話の台詞ね)
年齢に関わらず意外と人は欲ぶかい。ヨクハナク、そういうものに私はなりたいと言った宮沢賢治ですら【なりたい】と欲があるのだ。
先生の教え方が下手だから分からない。開き直っちゃあおしめぇだ。…労働者諸君!!…いいや学舎の諸君!!……と、葛飾柴又生まれの人に言われちまうよ。
いいかい。おめえさま方よ。『分からない』を先生の教え方のせいにしても、こちらの人生は、先生がずぅっと責任を持ってくれる訳じゃない。今はピンもこないだろうけどよ。
便利な時代になったものだ。きっとこれからもっとそうなる。師匠や先生は、自分で探せばいい。一人じゃなくていい。たくさんの自分だけの先生を作ればいい。マイノリティにはマイノリティに合う先生が、マジョリティにはマジョリティに合う先生がいる。ただそれだけさ。
さぁ、学舎の諸君!!
今日も励むぞ、なにがしかを。
いつか遠いところにいるきみが、この活字にふれたとき。私を慮り、ひょっこり会いに来てくれたら嬉しく思うよ…なんて、論語で言ってたよね。ふわっとしか、理解していないけれど。
ヽ(*´∀`)ノヽ(´∀`ヽ)ヽ(*´∀`)ノ