大聖堂の描き方(短編の名手レイモンド・カーヴァー)
Raymond Clevie Carver Jr.
自分の読書が長編中心なのは作者の世界観をじっくり味わいたいからで、短編だと、世界観を理解したぐらいで終わってしまうのが寂しかったりします。
だから、短編しか書かないレイモンド・カーヴァーみたいな作家さんは、自分にとって、苦手ではないけれど没入できるほどには読み込めない作家だと思っていました。
カーヴァーは、村上春樹さんがその著作の全てを訳している同時代作家ということで、興味を持って読んだんです。
面白いし、感性には魅かれるものがあったのですが、ミニマリズムに徹してそぎ落とされた文章スタイルは、自分にとっては物足りなく感じられて、いつも、最後は放り出された感の残るものでした。
「あ~長編が読んでみたい。」って思わせる作家さんでした。
それが、正直なカーヴァーの印象で、そんなに大好きな作家さんではなかったのですが、この『大聖堂』という短編集を読んで、ちょっと印象が変わったんですよね。
全部で12の短編が収録されているのですが、最後に配されているのが表題作の『大聖堂』で、この話がなかなか素敵な話なのです。
タイトルが”大聖堂”といっても、宗教がかった話でも、歴史ものの話でもありません。
簡単にあらすじを紹介すると
~みたいな感じです。
主人公と盲目の黒人男性との間に、どういうことが起きたのかは、ぜひ、作品の中で確かめてもらえればと思います。
カーヴァーの短編は、短いものはホント短いので、多少の長さがあると自分にとっては嬉しかったりします。
この表題作の『大聖堂』は、多分、カーヴァー作品の中で、もっとも長い作品の一つなので、自分みたいな読み手にも静かな感動を与えてくれたのでしょうね。
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この短編集の中には、他にも印象的な話があります。
幼少期に井戸に落ちた話が出てくる『ぼくが電話をかけている場所』や、妻に去られて幼い子どもたちとベビーシッターと暮らしている男の話の『熱』など、短いながら、締めの部分がとてもいい感じです。
また『ささやかだけれど、役にたつこと』は、別の本では『風呂』というタイトルで収録されていますが、『風呂』が編集者も交えてミニマルに調整された版なら、『ささやかだけれど、役にたつこと』は、作家自身が当初書いていた、いわばディレクターズ・カット版といえる作品です。
個人的には、この長い版の方が好きで、失意のどん底にある人を描いたこの作品では、終わり方はこちらの方が断然いいと思っています。
短編小説が好きな人、また、自分みたいに、それほど短編小説に魅力を感じてない人にも、この短編集はお薦めなのです。
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