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第84回愛知県世界史教育研究会に参加して思ったこと。

 今年はすべての回に対面で参加した(厳密にはあと1回)愛知県世界史教育研究会であるが、今日のテーマは深みがあった一方で、うーん、と悩むことがあったので、ゆっくりと綴りながら整理したい。

1.「自分ごと」が便利な言葉すぎる

 今回の研究会で、キーワードとなったのは「自分ごと」化することであった。だが、これがよくわからない。テーマは「イスラエルとハマスの戦争」を通じた「パレスチナ問題」であった。だが、遠い国の戦争を自分事化するのは非常に難しい。
 
 そもそも、「自分ごと」化そのものに先生によって多少の認識のずれがあるようにも思う。例えば、「自分ごと」は自分の身に起きた”当事者意識”の事なのか、それとも自分が被害に遭ったわけではないが、親族としての極めて重要な関連性程度を指すのか、それとも一国民の主権者としての危機感なのか、一度、ちゃんと定義してある程度の範囲を画定してからの方が、より深まりを見せたのではないだろうか。これを研究会で指摘できればよかったのだが、あまりに抽象的すぎてふわふわしてしまい、その機会を失ってしまった。

 考えているなかで、自分の「自分ごと」化は、特に戦争に限っては「一国民の主権者として」捉えたほうが良いのではないかと思った。
 
 京都の高校の先生が最後に実践発表したが、その際にNPO法人による講演について紹介しており、その質疑応答で高校生が「私たちにできることは何ですか?」という質問に対して、「今の政府を変えられるよう声を上げること」だった。まさに、当事者意識と言っても自分の身に降りかかった災難の被害者としてではなく、一国民の主権者、意志ある主体として児童生徒を認識し、それを育成・実現するという意味での「自分ごと」化の方が、納得がいく。 

 むしろ、多くの実践発表者はこれを目指していたのではないか、とさえ思われる。すなわち、野々山先生の実践では、グループワークはいつもと異なり生徒が他教科の先生と白熱し、価値判断を行っていた。主権者という意志ある主体に必要な過程であると位置づければ、この実践の意味はさらに深くなる。井上先生の実践でも、主権者教育にまで範囲を拡張しようとしていたが、これも「自分ごと」を一人の主権者として位置づけておけば、より関連させた授業実践が可能になると思われる。

2.生徒さんの生の声が聴けた

 なにより、今回の研究会の一番の大目玉は、野々山実践で生徒の声を直接聞けたことにある。そのおかげで、各先生も非常に納得しており、和やかなだけどもいつも以上に深い議論がなされたように感じた。

 大学生の身分である私も、思わず何度も首を縦に振るほど、生徒の回答に強く共感する一方で、教師視点に立てばぜひ生徒に聞きたい質問も出てきたので、あそこで大きく時間を割いてくれたのはとても良かった。

3.平和学からの再整理の必要性

 今回のテーマが「戦争」だけあって、その対極にある「平和」がかなり協調された。しかし、パレスチナ問題は「民族自決」の問題も絡むために、「ユダヤ人」と「パレスチナ人」の差別問題も当時に潜在している。軍にょる暴力が日常茶飯事に起きていること。これは、佐々木先生が講演で指摘した通りである。

 それならば、ガルトゥング平和学の基本から再整理した方が、よりパレスチナ問題を立体的に捉えることができたのではないか、と思う。つまり、今回の戦争などいわゆる見える暴力は「直接的暴力」であって、差別や抑圧などを「構造的暴力」とみることである。また、現代でも形を残す「集団的虐殺」は文化的暴力として形を残していると言えよう。

 仮に戦争が終わったとしても、平和学からすればそれは「消極的平和」にすぎないのであり「積極的平和」に変化させる必要がある。このように整理すれば、戦争を取り上げるだけでなく、その先までも実践の余地を持つこととなる。それは同時に平和教育というカテゴリーでも異なった意味づけがンされるであろう。

4.平和的生存権に踏み込む余地があった

 憲法学を専攻している身として思うのは、今回の発表でより人権を強調するのであれば「平和的生存権」について踏み込む余地はあったのではないか、と言うことである。簡単に平和的生存権について触れておくと、平和な世界で生きる権利のことを指すのであるが、問題は戦争など緊急事態が起きた時に、この権利の行方が分からなくなることである。

 まだまだ、平和的生存権の文献を読み漁っていないので、実質何も知らないのだが、実は憲法学上でも議論の遡上になっている状態である。特筆すべきは有力となっている議論の一つに、条文の趣旨を読む「勿論解釈」によって、生命を普遍とするために、国家が崩壊することもやむを得ないとする主張が存在することである。

 確かに「生命」が続くことは普遍的なのかもしれない。だが、それを優先した結果、国家が崩壊することまでを許しても良いのだろうか。少なくとも、日本を含めほぼすべての憲法はそれを許していない。

 したがって、国家を維持したいが戦争によって命を落としてほしくない、という命題が成立する。私たちはそれにいかに応えるべきなのだろうか。仮に停戦・休戦したとしても、いつ戦争が起きるのかは全く分からない。果たしてそれは、私たちが望む「平和」なのだろうか。

 話を戻すと、平和というカテゴリーにこだわらなくても、人権というカテゴリーから平和を捉えることは充分に可能であるということである。その余地を今回は残っていた、と言うのが私の主張するところである。

4.さいごに──平和、民主主義って何だ?

 以上が今回の研究会で思ったことであるが、改めて「平和」とは何だろうか、そのための「自分ごと」化、それを踏まえての直接行動、すなわち「民主主義」の問題までをも含んだ非常に複雑な話題であったと思う。

 僕は「戦争」の対義語を「平和」と置くべきではないと思う。確かに戦争は直接的暴力ではあるのだけれども、必ずしもそうとは限らない。一度、生徒に「平和って何?」と聞いた方がいいかもしれない。少なくとも「戦争がない世界」などのレベルではとどまらないはずである。差別や抑圧、貧困、セクシュアリティなどなどの問題に向き合って、それぞれの平和観が生まれていくに違いない。数々の問題である構造的暴力は希死念慮を生むこともあるだろう。それはある意味でその人にとっては常に命の危機にある「戦争被害者」であるといっても過言でない。平和を考えるためには、命を危機を考えることが一番重要になってくると思う。

 しかし、日本という国は欧州と異なって「社会的な死」が直接「生命的な死」に固く連結してしまうために、自殺大国となっている。その結果、社会的な死、例えば、自らの名声や地位を落としたくないために、保身に走り、デモなど直接行動が盛んでない。それゆえ、日本は民主主義国と言いながら、あくまでも選挙だけ、というような状況になりつつある。

 親交のある大学の先生と団体交渉関連で少しだけお手伝いさせてただいている。その中で、ビラ配りという選択肢が急浮上してきたのだ。だが、私は学生である。確かに授業料を納めているのだから(実際には親が払ってくれているのだが)、意見を表明する権利は有るはずである。しかし、尻込みしてしまった。すでに内定ももらい入社先も決まっている。そのなかで下手に動いて、自らの今後の人生が狂うようなことがあってはならない、と思ったのである。

 それから今に至るまで、先生や知り合った労組の人には何ら連絡していない。それは直接行動するのが怖いからである。その感情が言語化されたとき、これが民主主義の没落だ、と思ったのだ。民主主義には全員が「柔軟だが固い意志を持った人」であることを前提とする考え方である。しかし、今の私は小心者でしかない。民主主義を信奉してきたのに、自らの拒絶反応を通じて、民主主義の敗北・没落を痛感したのである。

 仮に授業を通じて「意志ある主体」を育成したとしても、直接行動の意義をどれだけ知っていたとしても、尻込みしてしまう自分がいたとするならば、それは民主主義には何の貢献もしないのではないか、と思う。

 日本国憲法の三大原則と言えば、「平和主義」「国民主権」「基本的事件の尊重」である。だが、憲法学では「平和主義」が基礎にあって初めて「国民主権」「基本的人権の尊重」があるのである。平和を考えどれだけ思考力が育とうが、私たちに勇気がなければせっかくの「主権」や「人権」はもったいないのではないか。

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