生きていない時間の長さを考える
小3の衝撃的な出来事
生死についてリアルに考えた始めたのは小3の頃です。初夏に母と大げんかして腹いせ?に大岡荘八の「徳川家康」と漫画の「はだしのゲン」を読み始めたのがきっかけでした。
本を読むとその世界に生きてしまうわたしはどちらもほんとうにあったことだと頭が信じてしまい、死ぬことと生きていることを臨場感たっぷりに味わったんです。
はだしのゲンを読んだら寝ても覚めても、広島の焼け野原の中で生きていかなきゃならなかったり、ピカドンで一瞬にして消えていたり、家の下敷きになって徐々に火がついて焼けていく人になったりしていました。
徳川家康は何人もの登場人物の主観で書かれているので最初小3のアタマは混乱して訳が分からなくなり、3、4回最初から読み直すハメになりましたが、なんとか秋ごろには読了した気がします。
仏教視点で書かれた「誰も生まれながらの悪人はいない」というメッセージに貫かれた物語はその後の思考に大きな影響を与えました。
人は死んでいる時間の方が長い
二冊の本に出会い、夜も眠れないぐらい苦しんだのは「人は死んでいる時間が基本」という事実でした。輪廻転生があろうがなかろうが、記憶がないならそれはもはや別人です。
今の自分、に未練があり過ぎて、今の自分が消えることがイヤで生きている時間のあまりの短さに苦しむことになりました。
目を閉じても圧倒されるような虚無感は、ただ半年、一年と経つと正直言って飽きてきました^^;
これは答えがないし、怖がったり哀しがったりしている時間分、心身を痛めているだけだと気づき始めました。
どんなに悩んでも、とりあえず物質的には灰になっちゃうわけで、悩んでる時間があったらその分いろいろ味わって感動した方が生きている甲斐があるだろうという結論に至ったわけです^ ^
悩みは解決しない
この死への悩みは永久に解決しません。強いて言えばそれを気にしない生き方が解決かもしれません。
問題は問題ではないと思った時にそれが解決になりますからね♪
今でも時々は発作のように深い虚無感や無への恐怖に引きずりこまれます。
そんなときは抵抗することなくしっかり恐怖を味わって、でも捉われずに日常に戻ることにしています。
生きている時間は短すぎる一瞬だし、生きていない長さは気が遠くなるほど膨大です。
たとえ、前後に生があったとしても今の記憶にはないから何の慰めにもなりません。
全体の中の命だから、孤独でも一瞬でもなく循環している、そんな考え方もありますが小3で味わった衝撃的な孤独はそんな回りくどい説得に耳を貸しません。
今の意識のままの自分、はこの世から離れるのはまだまだ残念無念で怖がりなんです。
時々訪れるそんな自分と上手く付き合いながら、愛しながら、淡々と今の人生を生きていこうと思います^ - ^