労働について

仕事を始めて半年が経った。6か月齢だ。赤ん坊になぞらえれば、母親から譲り受けた免疫が切れて、毎週のように熱を出す頃だ。
あながち間違いでもないだろう。
フレッシャーたちが、会社に対して抱いた甘いイメージの、そろそろ崩れてくる頃合いである。

就職活動では、どの会社も、将来のため、明るく前向きに、自社のビジネスを描いて見せていたことだろう。初期研修で、自社のことを否定する先輩社員などいなかっただろう。社員は誰もがキラキラと輝いているように見えただろう。
それが、配属されてみると、死んだ目で惰性的に働く人の方が多勢だし、社員は口を開けば、自部署や上層部への愚痴を吐くし、会社のビジョンなど知ったことではないといった雰囲気もある。

フレッシャーは、少なからずショックを受ける。
就活や、研修では、出世街道を往く、スーパーな人にしか会わなかったのである。でも、それはごくごく一部の特殊の人たちで、いうなれば「人を使う側」に立つことができた人だ。しかしどうして会社を構成する人の殆どは、どちらかというと「人に使われる側」の有象無象なのである。
もっとも、ベンチャー企業のように「使うことができる人」すら居なければこれは当てはまらないが、ここでは僕は、ある一定程度まで成長した会社について触れているので、そういう会社については度外視させてほしい。

そういう、不健康なオーラ漂う「使われる側」の人たちと、一日の多くの時間を共にし続ける。彼らは、上司は何もわかっちゃいない、とか、上層部は仕事をしているフリで必死なだけで何もろくに考えちゃいない、とか、毎日毎日そういうネガティブなイメージを語って聞かせてくるので、洗脳のきらいすらある。
そして、夢溢れていたフレッシャーの頭の中では、なんとなく、会社と言うのはろくでもない集団で、自分はそのろくでなしの一部になっているのではないか?という考えが、頭をもたげ始め、己を苛み始める。
採用面接や初期研修で作らされた夢は、賞味期限切れが間近だ。

僕は、だから夢や希望を持ち直さないといけない、などとは考えない。
もちろん、夢を胸に抱き続けることで前向きに仕事ができるなら、結構なことである。しかし一方で、夢とか希望とかの明るいイメージを持つことには、非凡な才能を要するものであると、僕は思っている。
世の中は嫌なことで溢れていて、僕程度がちょっと奮発してこしらえた程度の夢や希望は、すぐにぶっ潰されてしまう。だから、夢や希望を持とう、などと他人に向かって言うことは、僕にはできない。僕自身にそれができないからだ。

僕の考えでは、世の中に溢れる嫌なことの最たるものが、労働そのものである。
カネが無いと生きていけない。だから仕事をする。しかし、なぜ仕事をすればカネを貰えるのか、と言うと、それは仕事が「カネを払ってでも他人にやらせないとならないくらいには、誰もやりたくないけど、誰かがやらないと払い主が困ること」だからだ。
要は仕事は、払い主、もとい資本家の都合であり、雇われる人間の人生には、本質的にこれっぽっちも関係しない「作業」で、誰もすすんでやりたくなることはない、カスの「作業」だ。
このカスの「作業」に生活の必要上から従事することを「労働」と言う。

個人の夢や希望をぶっ潰す最たるクソが「労働」だ。
かつてケーキ屋にあこがれたあの子も、ミュージシャン志望だったあいつも、ヒーローになりたかった彼も、あらゆる人を労働ひとつで挫くことができる。「夢は夢・現実は現実」というわけだ。
カネがないと生きれない以上、万人が払い主の言うことを聞かなくてはいけない。時間は搾取され、作業を強要され、意気は削がれ、息が詰まる。

ときどき勘違いしそうになるが、出征街道まっしぐらのキラキラビジネスマンや、はたまた社長すらも、漏れなくこのクソ構造の被害者であり、無縁で居られるということは絶対にない。
彼らもしょせんカネのため、会社から"人を使う"という仕事を請け負っているに過ぎないと考えるべきである。
なぜ社長が、前向きに、明るいビジネス展望を語ってみせるのか、というと、彼にそういう能力があるという理由以上に、そのように振舞うことこそが彼の仕事(誰もやりたくないけど誰かがやらないと払い主が困ること)だからだ。
社長も、管理職も、平社員も、労働から逃れることはできない。

ここまで書くと、僕が「打倒資本家・共産主義の到来」を望んでいるように見えてくるかもしれないが、もちろんそういった意図はない。
僕は労働を甘んじて受け入れるつもりだ。
労働をやめ、カネがなくなって貧困で死ぬよりは、仕事をする方がマシだからだ。

なにより、資本主義のおかげで文明は急成長し、僕のような凡人でも、死の恐怖からずいぶん遠いところで生活ができるようになった。
文明が未熟な頃は、天災一つ、疫病一つで、人がドタバタと死んでいた。農耕や狩猟に明け暮れても、十分な収穫が得られるとは限らなかったはずだ。
いくら汗水たらしても、満足に食うことができるとは限らない、そんな暮らしは、はっきり言って、労働の更に上を行くクソだ。
こんな危機と隣り合わせの人生では、個人が夢らしい夢を持つこと自体「夢のまた夢」だっただろう。
つまり、労働は、クソの中でも相当マシな方のクソなのではないか、と僕は思っているわけである。

それでも、やっぱり、労働はクソであることに変わりない。
個人がいかに夢や希望を持とうと、忙殺や、能力不足、無能な上司部下同僚、など、労働上立ち現れる諸々の現実によって、もれなくぶっ潰されるのが目に見える。

そのたびに自分の夢希望を逐一軌道修正ないし改造するのも、まあ、アリかもしれないが、凡人では、この繰り返しに耐えられるレジリエンスを持たない。
僕には無理だ。
そんなことをしているうちに、どんどん腐っていくか、さもなければ、良くて早期退職、悪ければ鬱病を患って自殺、というオチだってあると思う。

今、社会人として月齢6か月の僕にとって大事なのは、労働はクソである、ということを、重々承知することだと思っている。
そして、できれば腐りたくないので、陳腐な言い回しだが、とにかく自分をしっかり持つことを心掛けたい。
場合によっては会社のビジネス展望にあたかも夢希望を持っているかのように振舞って、前向きに仕事を進めてみせることも、非常に大事だと思っている。
すごくざっくりした言い方をすれば「大人になろう」という一言に纏められる気がする。

1年前、博士4年生時に、同じようなことを鬱々書いている。
今はもう、だいぶ吹っ切れているということだ。

もちろん、僕と異なり、腹を括って腐りにいこう!というのもokだと思っている。
冗談で言っていない。本気である。
クビにされない程度に仕事をこなせば、生活は問題なく送れるのだ。どうしてその態度がダメだと言えようか。

だが、それならそれで、周りにその雰囲気をまき散らすのはおすすめしない、というか、極力やめてほしい。
そんな態度だと、上に邪魔者扱いされ、どんどんろくでもない仕事を回されかねないと思う。
あと、もっと基本的な話として、そういう露悪的な人は嫌われる(僕は嫌いだ)し、人に嫌われて得することは、人生でほぼ無いと思う。

将来腐るにしても、なるだけ良好に腐りたいものだ。

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