仕事を始めて半年が経った。6か月齢だ。赤ん坊になぞらえれば、母親から譲り受けた免疫が切れて、毎週のように熱を出す頃だ。 あながち間違いでもないだろう。 フレッシャーたちが、会社に対して抱いた甘いイメージの、そろそろ崩れてくる頃合いである。 就職活動では、どの会社も、将来のため、明るく前向きに、自社のビジネスを描いて見せていたことだろう。初期研修で、自社のことを否定する先輩社員などいなかっただろう。社員は誰もがキラキラと輝いているように見えただろう。 それが、配属されてみると
はじめに 今年の4月、企業に就職した。生活のために。もっと卑近に言えば、給料のために。 独立不羈の研究者としてやっていく能がないことを博士課程で悟り、果てに企業に就職した形だ。 ある種の敗北を認め、労働者として、つまり搾取される側として社会へ参画することにした。 大部分の人は、カネを人質に取られた労働搾取の原理に包括されないと、生活できない(資本主義と呼ばれる)。僕もそうだったわけだ。 この原理を覆せるほどの圧倒的な才を持っていれば、話は別だが。 我々はこの原理を無
バスを降りて会社に行く途中にビワが落ちていた。アスファルトに灼けて表面がぐずついて熟れていた。それから犬の糞を2つ見つけた。つやっぽい表面に、蠅が元気にたかっていた。よく考えてみれば、バス停へ向かう川原でも1つ犬の糞を見ていた。つまりその日の俺は、下を向きながら歩いていた。 猫を飼い始めた。うにと言い、8歳のちびの雌の保護猫で、名前とは裏腹によく動きよく喋る。 暑いのにお構いなく、膝や腹の上に乗っかって、にゃあと鳴く。そうして撫でてやっていると、急にかぷりと手に噛みつ
「本日ハ快晴也」という文は、きょうが快晴であることを伝え、それ以上でもそれ以下でもない。 適切に活用させた品詞をSVOに当てはめると、そこにある種の情報の伝達が任される。 本来、文章とはそういう無機質の連なりである。 人間は根源的にさみしい存在だ。 自分の念慮することは「SVO」程度ではないと、誰しもが心から信じている。 わかってほしい!相手の心を動かしてみせたい!という欲求が、常にわだかまっていている。 文章表現者という生き物は、文章をしたためる際、この欲望を発露させ
チェンソーマンの藤本タツキ原作の漫画「ルックバック」が、先日劇場版になって公開された。 僕はまだ観に行っていないが高評価を得ているらしい。原作の完成度を鑑みれば当然である。 公開されてからそこそこ時間が経ったが、まだTwitterでは鑑賞の余韻を噛みしめる感想が流れてくる。 それだけ人々に刺さる良作品ということだ。漫画としてもとても良かったので、映画も観に行きたいものだ。 とは言うものの、僕がルックバックの映画を見たところで、おそらくほとんど感動しないだろう。 なぜなら僕は
人はなぜ泣くのか。 僕自身は、ほとんど泣くことが無い。大学受験で合格したときも、博士研究で行き詰まったときでも、無事博論を脱稿して修了したときでも、涙が出てくることは無かった。 でも、映画を見てるときはよく泣く。あとは、生オーケストラ演奏を聴くときとかは、自分でびっくりするくらい泣くことがある。 泣くとは何だろうか。なぜ僕らは泣くのだろうか。 悲しいから泣くのだ、では理由にならない。嬉し泣きと言う現象があるからだ。 また、悲しければ・嬉しければ常に泣くのかというとそうではな
少し子供の頃の話をしよう。小学校1年か2年のころだと思う。 俺は、お喋りだけど知恵遅れ気味でコミュニケーションが下手な子どもだった。記憶はおぼろげだが、人の話題に気を配らず思いついたおしゃべりをのべつ幕なしにし続けるようなそんな餓鬼だったはずだ。 姉が、ある時を境に俺を「そーいうのKYって言うんだよ」と批判し始めたのだけはハッキリ覚えている。KYは「空気が読めない」のことで、当時やたらと巷に広まっていた言葉だった それからというもの、姉は、事あるごとに俺のことをKYだ、K
少なからず誰にでも、自分なりにこだわりを持ってやっている趣味というものがある。映画鑑賞、演劇、読書、料理、楽器、ゲーム、漫画、アイドル、登山。今も昔も大して変わらないラインナップが揃っている。 一方で、現代人の趣味においては特有の事情が取り巻いている。それは、インターネットのせいで自身の趣味を「趣味」と名状していいのかわからないような気がしている、というものである。 インターネットがさながら包囲網がごとく身近に張り巡らされた結果、求めてもいない情報があちらの方からこっ
社会人1年目が始まった。4月にやることと言えばそう、新人研修である。 新卒としてこの春就職した僕は、今、研修の真っただ中である。 それにしても、こんなにキツいものとは思わなかった……。 役員からありがたい講話を受けたり、講義と題して業務内容を頭に詰め込まれたり、グループワークで「絆を深め」させられたり。僕は4月のいっぴから今日まで、毎日そういうことをしている。つまらない部分もあるが、ちゃんと得るものはある。だから、研修自体に特段不満はない。 だがキツい。 最もキツいと感
これは『暇と退屈の倫理学』という本の覚書である。と言っても、第一章「暇と退屈の原理論」の [苦痛を求める人間] という節までのまとめであり、本の全体の十分の一にも到達していない最序盤までの部分に該当する。興味のある人はご自分で購入されることをお勧めする。 人間、暇になれば退屈する。それで気晴らしや趣味に興じ始める。 だが、パスカルによればこれはまったく「惨め(ミゼラブル)」であるとのことである。 暇と退屈に起因する「人間の惨めさ」として、この本では簡単に3種類の「惨めさ」が
noteを始めて3年弱経った。これまで書いてきた様々な文章の中には、「いいね」が多くついてるものもあれば、そうでもないもの、全く評価されてないものもある。 伸びない文章がなぜ伸びないのか、ということについては、形式上のまずさに原因があると、少し前までは考えていた。 段落組などの文章の構成が不出来で、言わんとしてることが伝わりづらいために、あまり評価されないのだろう。 そうした考えから、noteの文章では、なるだけ形式を整えることを心がけてきた。 しかしながら、比較的形式が
「俺の卒業論文はゴミ以外の何でもない」 ありふれた嘆きの声である。僕も自分の卒論を「ゴミ」と断言していた。 今、僕は博士課程を終えようとしている。いろいろあったがとりあえず博論として研究成果を纏めることができた。卒業論文の頃に比べれば、ずいぶん成長したものだと思う。 卒論を書き上げた頃は 「成長して振り返ったとき、きっとこの卒論は今以上に『ゴミ』に映ることだろう」 と思っていたのだが、実際のところそうでもない。確かに僕の卒論は科学論文の体を成していないし、酷いところも結構
noteのシステムがお節介を焼いてくれた。 こちとら明日が学位審査なので、勘弁してほしいと思った。
博論最終稿提出まであと7日。こんな文章書いてる場合じゃないんだけど、飯を食ってても電車で移動してても、ずっと喉に引っかかるような感覚があって仕方ない。それは以下の件に関係してである。 先日、このお方の投稿が炎上した。 「女性Ph.D持ちが事務職にいることをよしとしている」という旨を問題意識の高い人々に読み取られてしまった結果、炎上したらしい。実際、日本のアカデミア関連職における男女比がいびつなことは確かだ。 今の世間的には、こうしたアンバランスは、不当な男女差別が研究業界
※ゴリゴリのネタバレを含みます。ノーネタバレで『ウィッシュ』を視聴したい方はご遠慮ください。 12/15(金)に公開されたディズニー最新アニメーション『ウィッシュ』を、公開二日後の12/17(日)に同居人と映画館へ観に行った。 同居人はディズニー愛好家なので、ディズニー+のサブスク商売優先の粗製乱造、ポリコレ過多と言った、昨今のディズニーアニメーションを取り巻くきな臭い事情を兼ねてからある程度憂慮していた。 それだけに、ディズニーアニメーションスタジオ100周年の節目とな
序 最近の自分のあるある 俺の意見をあなたに伝える。 しかし伝わらない。それどころか誤解されてしまった。 言い方がよくなかったのかもしれないので修正する。 あなたの誤解は解けたように見える。でもやはり伝わっていなさそうだ。 もう一度だ。俺は表現をより明確にしてやる。これでどうだ。 なんと、なぜかあなたの誤解を蒸し返してしまった。 しかもいつの間にか誤解はあなたの中で確信に変わっているらしい。 俺は最初から今までそんなことは一言も書いてないのだが。 こんなことばっかりで、う