海獣の子供について
海獣の子供というマンガがある。映画化されたのでタイトルを耳にしたことがある人も多いと思うが、僕は全巻購入して所持している。
僕はこのマンガを、他と同じように好きだと言えない。話の展開がぶっ飛びすぎてて何度読んでも未だに理解不能なため、好きとかそれ以前の問題なのだ。にも関わらず全巻持っているというのも、変な話である。
一応断っておくが、僕はよほど気に入ったマンガでない限り買わない。本当に面白いと胸を張って言える漫画だけを普通買い揃えている。その自慢のラインナップにこの意味不明のマンガが紛れ込んでいるものだから、本棚に並ぶ背表紙を眺めて僕は何をとち狂ったものかと後悔してみることすらある。
それでいて時たま読み始めてみると、ストーリーの大筋がどうでもよくなるくらい強烈に惹きつけられる(そういう体験が珍しくて買ったのかもしれない)。一体僕はこれの何が気に入っているのかと言うと、画と演出の凄さもあるが、何よりセリフの一つ一つが含蓄豊かでよいことに尽きる。
この漫画は主人公の中学生ルカと、海獣に育てられた双子だという海および空が出会うことから始まる。
彼らは互いに自然と引かれ合い、行動を共にするようになる。そうなった理由は
『ルカからは同じものを見てる人のニオイがする』
という海のセリフで説明される。
かなり抽象的な言い回しだけど、この言葉にはハッとすると思う。同じものを見てる人のニオイ、という表現は、人と人が一緒になることの普遍的な本質を突いていないだろうか。
「ニオイ」という化学物質と受容体のみから構成される初歩的な五感で喩えているのは、このことが生物としての原始的原理であることを示唆しているような気すらする。
では同じものを見るとはどういうことか。この後、海と空の保護者であり海洋研究者のジムの口から、「見る」ということについて(大意だが)こう語られる。
『見るっていうのは光を…信号を受け取ることだからね。テレビとリモコンの関係と同じさ』
『何か見ることでチャンネルが変わってしまうこともある それによって、見る前の自分と全く変わってしまうこともあるかもしれない』。
これを「人は同じものを見たものどうしで寄り添い合う」ということと併せてみると、つまり、人は無意識のうちに、自分と同じチャンネルの持ち主を捜すのだと言える。
「見る」という超普遍的な行動に限らず、ざっくり言えば、人は、自分と同じことを体験して感じてきた人と、一緒に居たがる傾向があるように思う。
実際、物理的に離れても付き合い続けることを選んだ友人の面々を具体的に思い浮かべてみると、確かに同質な人を選んでいるに違いないな、と腑に落ちる。
ところで、信号を発するとは、なんなのだろうか。このことに示唆を齎すのは、序盤に伏線される隕石現象に際し、そのまばゆさに海が語るこのセリフだろう。
『あんなに強く光ってたんだから、きっと誰かに見つけてほしかったに違いないよ』
『(ホタルのような)生き物も、星も、誰かに見つけてほしいから光るんだよ』
つまり信号を発するのは、「見つけて欲しい」というさびしさ故なのだと言う。
その信号が受け手にチャンネルの切替を引き起こし、誰と寄り添い合うかを決定づけるのだとしたら、興味深くないだろうか。誰かのさびしさの表れが、他の誰かのさびしさを変質させているのかもしれないらしい。
セリフ群が示唆するこうした空想を通して、僕は〈さびしさ〉という生物の根源的な動機付けが持つ、エンタルピー的法則の可能性に思いを馳せたりしている。
これではたして僕は本当にこのマンガを読んでいると言えるのか?という至極当然の疑問はさておいて、身分柄、基本的にセンチメンタルを回避している僕のようなやつでも、ひとたび読めばこうやってチャンネルを変えられてしまうというのが、このマンガの持つ不思議なパワーであり、これはまさに非常特異の光を放っている作品に違いないと、僕は固く信じている。
ちなみにこの投稿で挙げたセリフ群、すべて第一巻の内容だったりする。誇張抜きでこの濃度のまま第五巻までずっと進むので、もし本当に読むなら覚悟の準備をしておいてください(ワザップジョルノ)
マンガはちょっと読むハードルが……という方はぜひ映画を観るといい……と言いたいのだが、あっちはマンガ版とはかなーり違うので、興味があるならいっそ両方鑑賞すれば良いと思う。怖い言い方をするが……どっちを鑑賞しても、きっとチャンネルが変わる体験ができると思う。