母親上名と兄の婚約破棄
私の好きな季節、秋。後期の授業もたけなわ?、「吃音」の授業では個人での発表があり、記事#1「スピーチ・セラピスト?!」で紹介したヴェンデル・ジョンソンの言語関係図を交えて発表した。特講も「失認・失行」など興味深い講義があった。個人的には、夏から新聞配達に加えて新たに家庭教師のアルバイトを始めていたので、市内を自転車🚲で走り回っていた記憶がある。忙しい!💦
そんな時に母親が名古屋にやって来た。というより、上京の途中に寄ったのだった。上京の目的は、婚約を破棄した兄とお相手のご家族への謝罪に伺うためだった。電話も引いてなかった私は、その経緯を聞くこともなく理由も知らず突然の事だった。
ただ、心の片隅では「やっぱりダメだったか、、」と、思った。
我が家の家庭の事情はここでは書かないが、その夜、100円玉を積み上げた公衆電話ボックスで泣きながら兄を怒鳴っていた。何故かと言えば、その理由を「スペインに建築の勉強に留学する」(兄は建築士)と、突然に沸いたような嘘をことも無げに口にしたからである。。絵に描いた餅どころではない、結婚という事態から逃げたのは弟の私には明らかだった。
ご存知の方もあると思うが、Holms(1968)によるストレスランキングでは、1位が配偶者の死、2位が離婚で、結婚は7位にある。結婚は、一般に明るい出来事の代表のように思われるが、結婚率の減少と離婚率の増加が示すように、新しい環境への適応ということからストレスの代表的な類いである。
更に、我が家の歴史的な事情がある。当時の結婚は今の令和の時代に比べると、とても大きな社会的なイベントで、家族や親戚などを巻き込む時代だった。
兄の心が手に取るように分かる。夫婦喧嘩の絶えない家庭で同じ体験をしながら育った仲である。だからこそ、彼が婚約に至った時は真底嬉しかった。それをいわゆるドタキャンという形で周りを巻き込む、、彼はその後も同じ事をした。もはや、心理学的には「ゲーム」であり、交流分析の対象であろう。根は深く、他人事でもない。
一泊して名古屋駅のホームに立つ母親に一冊の本を手渡した。その4年前に神経症からの回復の途上にあった時、我が家の問題に気付かせてくれた加藤諦三の「賢い生き方・愚かな生き方」である。繰り返し繰り返し読んだ手元の一冊を読んで欲しいとその手に渡した。
📕この頃11月に読んだ本
「毎日が科学の目」 中村桂子 講談社
「物質の究極は何か」本間三郎 講談社現代新書
「胎児は見ている」T.バーニー 祥伝社