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『夢十夜 第一夜』についての考え

夢の話をする際よく、夢の中/目覚めた状態、を非現実/現実、の構造で語られがちです。例えば、映画『インセプション』の世界ではその構造で成り立っており、ここは夢の中(非現実)なのか目覚めた状態(現実)なのか混同してしまうという内容になっています。

対して、この『夢十夜』で語られている夢には、非現実/現実の構造ではなく、強い現実性しかないと感じました。それを考える上で、神の二つ能力について参考にしていきたいと思います。次の文章で言う、潜勢力とは、内に潜んでいて表に現れていない力のことです。

中世の神学者たちは、神のうちに二つの潜勢力を区別していた。一方は絶対的潜勢力(potentia absoluta)であり、これによれば、神はどのようなことでもなすことができる(神はこれによって悪をなすこともでき、世界が存在しなかったことにもでき、娘に失われた処女性を回復してやることもできる、とする神学者もいる)。他方は、秩序づけられた潜勢力(potentia ordinata)であり、これによると、神は自分の意志に合致することしか為すことができない。意志は、潜勢力の無差別な混沌に秩序を設けることを可能にする原則である。したがって、神が嘘をついたり、偽証したり、〈息子〉にではなく女や動物に化体したりすることもできたということが真であるとしても、彼はそうすることを欲しなかったし、欲することができなかった。
『バートルビー 偶然性について』ジョルジュ・アガンベン

例えば時間についていえば、我々は時間を客体化して捉えています。一日は24時間あり、時間は人間や動物、植物などなどの外側にあり共通なものだと、一般的に認識されています。そこでの時間は、秩序づけられたものであり、時間以外の現象も秩序づけられています。このような神の秩序づけられた潜勢力がどういう秩序なのか解明するのが科学などの学問です。また『インセプション』の夢の世界も、秩序づけられています。時間が現実世界の20倍ゆっくりと流れ、寝ているところの環境によって、夢の世界も影響を受けるという、秩序づけられた潜勢力が働いています。対して『夢十夜』については、絶対的潜勢力の世界です。墓の近くの苔に座り、日が東から出て、赤いまんまで西にのっと落ちる。それを百年繰り返す。また、自分が見ている間に、青い茎が伸びてきて、花瓣が開く。『夢十夜』では普段我々が認識している秩序はなく、絶対的潜勢力の世界です。この作品の百年は普段我々が感じているような百年とは違った時間の流れをしているように感じます。
ぼくが、『夢十夜』に強い現実性を感じるのは、この秩序づけられた潜勢力の世界よりも絶対的潜勢力の世界のほうに現実性を感じるからです。このことについて、映画『機動警察パトレイバー2』を参考に考えていきます。下記引用は映画のラストの方のセリフです。

柘植:ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか。
南雲:例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの。
柘植:3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気付きはしなかった。いや、もしかしたら今も。
『機動警察パトレイバー2』

あの街とは東京のことで、東京では人々は秩序づけられた潜勢力の世界で生きています。それを柘植はテロによってそれを壊そうとし、そこで強い現実を人々に見せようとする。壊した後に現実が待っているわけではなく、秩序が壊れるところに強い現実があります。秩序づけられた潜勢力の世界が壊れて、絶対的潜勢力の世界が現れる。それが柘植の目的であった。『夢十夜』の絶対的潜勢力の世界に強い現実性を感じるのはそういう部分です。
また、死に関して、登場人物がショックを受けていないことについて。『夢十夜』は悟りに近いのかな、と思いました。生老病死の苦難をスタートとして梵我一如に至るのが悟りです。梵我一如とは宇宙の原理(梵、ブラフマン)と我(アートマン)が同一であるということを知るということです。『夢十夜 第一夜』で女が死に、女が百合になる。死に対する意識が薄いのは絶対的潜勢力の世界と我が同一になっているからなのかと思いました。


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