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1/6 早朝読書会 安部公房「赤い繭」 レポ

読書会をやってみて

安部公房「赤い繭」の読書会を7名でやりました。

「赤い繭」は安部公房の『壁』という中短編小説集の一編です。家がないのか、わからないのか、忘れてしまったのかよくわからないが、家をもとめて彷徨っている「おれ」という主人公が、いろんな場所を訪れ歩き続けたあと、最終的に「赤い繭」になるという、シュールな話でした。

読んでみて、やっぱりまず家の問題について考えました。〈さまよえるユダヤ人とは、すると、おれのことであったのか?〉とあるように「おれ」はまるで異邦人のようです。読書会でも、戦後すぐに書かれた作品であったため、戦時中に家を失ってしまった人の話ではないのか、という指摘がありました。

ぼくはこの指摘で思い起こしたのは、安岡章太郎の『海辺の光景』という『壁』より約10年あとに書かれた作品です。この作品では、父の権威が失墜し、母はひとりの「女」になってしまう。そのようにして家=家族が崩壊し、息子である主人公の信太郎が住む家を探して歩くという話です。文芸批評家である江藤淳の『成熟と喪失  “母”の崩壊』という本の中で、『海辺の光景』のように家が崩壊し、息子が住む家をさがすというようなモチーフは戦前の作品にはなかったそうです。

だから戦時中〜戦後かけての家の崩壊は日本人にとってかなりのインパクトだったと思います。そのような家の崩壊は「天皇の人間宣言」にも現れているでしょう。戦前〜戦中にかけては八紘一宇という、天皇という「父」を中心とした家を構築していくという思想がありました。しかし、「人間宣言」で崩壊してしまった。

その崩壊のあと入ってきたのがアメリカの個人主義的な思想です。『成熟と喪失』では「カウボーイの子守唄」にアメリカ的個人主義をみています。

ゆっくり行け、母なし仔牛よ
せわしなく歩きまわるなよ
うろうろするのはやめてくれ
草なら足元にどっさりある
だからゆっくりやってくれ
それにお前の旅路は
永遠に続くわけではないぞ
ゆっくり行け、母なし仔牛よ
ゆっくり行け

カウボーイの子守唄

エリック・エリクソンによれば、アメリカの母親が息子を拒むのは、やがて息子が遠いフロンティアで誰にも頼れない生活を送らなければならないことを知っているからと言っています。産婆さんの手によって家で産まれ、その家で暮らし、結婚をして、子育てをし、死んでいく、そんな一生を暮らすような家も崩壊し、一人ひとりフロンティアを目指して旅立っていく、戦後のアメリカ的個人主義のもとでそういったモデルが主流になっていたような気がします。

「赤い繭」の「おれ」はそんな家の崩壊後、どうすればよいかわからず、さまよい歩いているようにも読めます。

ご参加いただいた方の感想

吾郎さん
 初参加です。今回は特に幻想的な作品の鑑賞だったこともあってか、思ってもみなかった別角度からの解釈の可能性にいくつも触れることができて刺激的でした。主人公はそもそも人間ではない何者か説とか、繭=家になって自我を捨て他の誰かを受け入れる側になる説、赤は共産主義のアカ説など、刺激的な説がポンポン飛び出して、たいへん面白かったです。参加者の皆様一人一人が、ひとの発言を尊重する空気感を大切にしているのが感じられて、そのおかげで未知の視点との出会いが発生しやすくなっている素敵な空間だと思いました。ぜひまた参加したいです。

次回

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