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2/1 日本の批評をよむ 小林秀雄「様々なる意匠」 レポ

読書会をやってみて

今回から始まりました「日本の批評をよむ」読書会、第一回は小林秀雄「様々なる意匠」の読書会を6名でやりました。

読書会の流れは決めてませんでしたが、一応資料のようなものは作っていきました。

読書会では様々な論点が出ました。

  1. 単純に言っている事がわからない。論文として読むと論点や結論が掴みづらい。

  2. 小林秀雄に内在する矛盾について。批評家として文章を書いているが批評を否定しているところがある。

  3. 「様々なる意匠」にはゆらぎがある。どうだ!という感じでプロレタリア文学を批判しているが、ラストで少し弱気になる。

  4. メタ認知機能について。ここで書いたように小林秀雄には文章を書くファースト小林と、それを監視するセカンド小林が拮抗している。セカンド小林については「Xへの手紙」にて「カメラ狂が脳内の中で同居し始めた」と書いている。

  5. 小林秀雄の戦略「搦め手」について。たぶん当時支配的であったプロレタリア文学の枠組みを批判しているが、もっと射程は広くあらゆる枠組み=意匠を批判している。なぜ批判するのか。意匠はリアル?とズレていくからだろう。

  6. しかし、小林秀雄自身その枠組の中でしかものを語れない。

  7. 批評は作品になり得るのか。そもそも作品自体が批評的ではないのか。あらゆる作品は無から生まれず、先行作品のオマージュとして制作される。ある意味どんな作品も批評と言えるのでは。

  8. 矛盾やゆらぎを抱えつつ書くこと、生きている人間が書いているというライブ感がある。

  9. 様々な意匠を批判しているが、意匠を使っている生の人自体は否定していない。

  10. 小林秀雄の批評スタイルは近代批判を含んでいるのでは。近代の枠組みでものを考えることの矛盾など、身をもって体現している。

あらためてみなさんと小林秀雄のお話をしてみて感じたことは、小林秀雄にとって「書くこと」=「生きること」だったような気がします。様々な矛盾を抱えながら「書くこと」、それは「生きること」が矛盾のなかにあるからそのように書いてしまう。しかもその矛盾は常人では耐えられないほど強力に対立しています。小林秀雄の批評をよむとは、意味内容を読み取るのではなく、その強靭な姿勢をよむことにほかならないと思っています。その姿勢は言葉では表現できません。言葉を限界まで積み上げた結果、それが崩壊する部分に現れる非言語的な領域です。
ぼく自身も「書くこと」=「生きること」のなかで書き続けられるかどうか、小林秀雄に試されているような気がしています。それは自分の脳内にもセカンド小林を同居させた状態で書き続けられるか。何かを批判しながらその批判の中で自分も物事を考えてしまっている状態に耐えられるか。そんななかでニセモノではない言葉を紡ぐことは可能か。生きた人間自体を批判することは何人たりともできない。その緊張感のなかでどう生きていくか考えていきたいです。

ご参加いただいた方の感想

もーりさん
 読書会に参加して感じた感想は、次の二つである。
 一つ目は、小林秀雄の『様々なる意匠』が、文学界における様々な主義や思想を批判的に考察(散歩)した評論であることだ。彼は、主義や思想がそれ自体を目的化してしまうことで、本来の文学の在り方が損なわれると指摘し、文学は「宿命」を表現するものでなければならないと主張している。しかし、主義や思想を批判しながらも、その中にある文学的な錯覚に対して一定の理解を示しており、完全に否定しきっているわけではない。このため、小林の文章には「ゆらぎ」が生じ、それが彼の評論を分かりにくくしている一因なのではないかと感じた。ここに彼の人間性を感じる。
 二つ目は、『様々なる意匠』が単なる批評ではなく、小林秀雄自身の文学論や文学批評論としての側面も持っているということだ。彼は文学を論じつつ、自らの批評の在り方を示しており、この評論は「文学批評家宣言」(自覚する)とも解釈できるのではないかと考えた。
  しかし、小林秀雄の文章はむずかしい。この感想は錯覚(気の迷い)かもしれない。

次回

なにを題材にするか考え中です。

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