シャミッソー『影をなくした男』について
シャミッソー『影をなくした男(ペーター・シュレミールの不思議な物語)』を読んだ。
主人公ペーター・シュレミールが金が無限に出てくる金袋のために、奇妙な男に自分の影を渡すところから始まる。シュレミールは影自体には興味なかったが、影をなくしたことにより社会生活から離脱せざる負えなくなる。
影とはなにか。精神分析学の泰斗ジャック・ラカンの理論、鏡像段階から考えてみよう。
ちなみに、ぼくはラカンが書いた本については難解で読むことができないため、ジジェク、内田樹、佐々木中、斎藤環などの書籍の中で、ラカンに関する言及から「こんな感じかな」というラカン像を作っている。実際にラカンが言っていることと相違がある部分もあるかもしれないということを留意願いたい。
人間は言葉を知らずに生まれてくる。これを「言葉を知らない子ども(インファンス)」と呼ぶ。そして、他の動物とは違い未成熟のまま生まれてくる。例えば、生まれたての子鹿は10〜20分で立ち、歩くことができるが、人間の赤ちゃんは10ヶ月ほどでようやくよろよろと歩くようになる。そのため赤ちゃんは親の庇護を必要とするのだ。この「言葉を知らない子ども(インファンス)」の段階では自分と外部の境目が不明瞭なのだ。何もかもが一色たんの混沌の世界にいる。
自信と外部に境目ができるのが鏡像段階である。人間は他の動物とは違い、生後6ヶ月の段階で鏡に写った自分に興味を持ち、自分の鏡像をこおどりしながら引き受けるのだ。そこで、自分と外部の境目が不明瞭な状態から、その間に境目の線が引かれるのだ。これを自我の起原のプロセスとして、ジャック・ラカンは語っている。
ただ、鏡に写った自分は自分であるが自分ではない。ぼくたちの認識のズレの始まりは、自分であるが自分でないものを自分として認識したところが起点となっている。自我とは身体像を獲得することで生みだされる想像界の産物なのだ。
シャミッソー『影をなくした男』の影響を受け、E.T.A.ホフマンが『大晦日の夜の冒険』にエラスムス・シュピーゲルという鏡像を失った男を出している。影=鏡像として考えられるだろう。
鏡はいたるところにある。家族や友達、同僚。そしてその背後にある言語、神、文化、国家、経済システムなど。そういったものによって自我が作られる。主人公ペーター・シュレミールは影=鏡を失ってしまったことにより、自分を形づくるものも失ってしまったのだ。
ペーター・シュレミールは影を失ったことにより、被差別者として生きることとなる。人との繋がりも恋愛も失ってしまう。怪談では影がないものは彼岸にあるものとして意味しているようだ。ペーター・シュレミールも彼岸にいるものとして周囲から差別の対象としてあったのではないだろうか。
しかし、彼岸にあるものだからこそ逆に言語、神、文化、国家、経済システムなどに縛られず自由に生きられるのかもしれない。ペーター・シュレミールはラスト不思議な靴を手にし、世界中を飛び回り、「自然研究家」となる。このラストは影=鏡を失い、孤独になったことにより得られた自由だと思う。
しかし、ぼくたちこんな孤独に耐えられない。ただ、人間関係に縛られている人生も息苦しい。そんな時、鏡に写った自分が自分であるが自分でないという両方を併せ持っているということがヒントになるのかもしれない。