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難解本と「サウナ」〜蓮實重彦『表層批評宣言』について〜
以前弟と一緒にサウナに入った時、正しいサウナの入り方について教えてもらった。
体を洗う
体についた水滴を拭いてからサウナに入る
サウナは12分間
サウナから上がったら汗を流す
水風呂に2-3分入る
体についた水滴を拭きとる
10分間外気にあたる
2.〜7をもう2回繰り返す
これを徹底的に突き詰めると「ととのう」状態になるらしい。「ととのう」とはランナーズハイのような状態で、苦行を重ねたあとでそこから開放されたときに来る快楽である。なので、サウナの温度が高ければ高いほど、そして水風呂の温度が低ければ低いほど「ととのう」に近づくことができるらしい。
蓮實重彦は『表層批評宣言』は難しい。しかし、読み進めていくと文体に心地よさが感じられ、わかった時の開放感は凄まじい。
蓮實重彦はあとがきにこのように書いている。
ここにおさめられた五つの文章はいわば肉体的エンターテイメントを目指しつつ、ここ五年ほどのあいだに書かれたものである。
そう『表層批評宣言』は肉体的エンターテイメント=サウナである。この本を読んで得られるある種の快楽は、サウナの「ととのう」と似ている。サウナの暑さから開放される快楽と、よくわからない本を我慢して読み進めた先に、理解できた時の快楽は同じようなものだ。日本語なのになにが書いてあるのかよくわからない、苦しい、辛いのが続いたあと急に訪れる開放的な景色。そのエンターテイメントの要素が『表層批評宣言』にはあるのだ。
また、あとがきには以下のように書かれている。
それなりに大家として知られている作家の一人は、日本語が滅茶滅茶になったことを立証する一例として、ここにおさめられている文章の一つの冒頭の部分を、その流れゆく日々に「一時間かけて」写しとってある雑誌に発表したのだが、その一時間が彼に強請しただろう生理的疲労を思うと、この挿話もまた、やはり感動的であるといえる。「知」的に読まれることだけは避けたいと願ったこの書物が、これほどまでに直接的に肉体にうったえかける生理的=運動的な反応を期待しうると思ってもいなかったので、この事実には率先に感動あえざるおえなかったのだ。
何が感動的なのかさっぱりだ。ただ性格が悪いことは確かである。
ただ、難解本なんてその程度なのだ。なんか深いことが書いてあるわけでもなく、読んだあと賢くなるわけでもない。すべての本はただの肉体的エンターテイメントでしかないのだ。
だから『精神現象学』とか『重力の虹』とか『フィネガンズ・ウェイク』とか『数』とか読破した人がいてもビビる必要はなく「サウナお好きなんですね」ぐらいのテンションでいるのが良いと思おう。
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