6/2 早朝読書会 萩原朔太郎『月に吠える』序レポ
読書会をやってみて
萩原朔太郎『月に吠える』序の読書会を6名でやりました。
今回は北原白秋の序文ではなく、萩原朔太郎の序文を読みました。「詩とはなにか?」「我々は普通に使っている言語と詩の言語とは何が違うのか?」といったことが書かれていました。
読書会では、「ことばとことばのそと」「リアルとリアリティ」「詩とケア」「意志と無意識」などなど…. の話をしました。
ぼくはことばの個別性と共通性のことを考えました。ことばは人を分断させることもあるし、つなぐこともある。萩原朔太郎は詩のことばによってその両方を有したもの体現させようとしています。一人ひとりは孤独な存在である。人間は一人で生まれ一人で死ぬしかありません。しかし、完全に孤独な存在かといわれると、そこには違和感があります。ぼくらは一人ひとり皮膚の色や目の色など様々なところが違います。けどなぜか同じ人間という括りになっており、その枠組みがしっくりきた状態で生活している。個別性と共通性は完全に分離できるものではないのです。
個別性と共通性について、いつも考えることは、キング牧師とマルコムXのことです。キング牧師は白人と黒人が共存した世界を作ろうとしていましたが、マルコムXは白人と黒人を居住空間を分離し、黒人は黒人の国をつくることを目指しました。このキング牧師とマルコムXの違いはこの2人だけに収まるものではなく、政治的な対立、今の言葉で言うと、保守とリベラルの対立によってずっと反復されています。政治はことばや行動を意味や分類に還元させてしまいます。
この人はこんなこと言ったから右だ、こんな行動する人は左だなどです。
ただ、人は個別性と共通性どちらかを選び、ひとつだけでいきていくことができていくのでしょうか?
ことばは意味だけで捉えてしまうと、他者との差異が明らかになりどんどん分離していくしかありません。そんな中でどうやってつながることができるのか。ぼくは、出発点はことばでよいけど、そのあとはことばから離れ非言語的な領域に行くことで、まったく違う他者であったとしても繋がることができると考えています。他の学問とは違い、文学は基本、極めて個人的な事が書いていますが、その中からぼくたちが感じられる普遍性をみいだしています。作品は、時代や地域や言語がちがったとしても、なぜかそこに共感してしまうちからがある。それは、実際にその作品の中でつかわれていることばの限定的な用法から離れ、自由に解釈したとき、ふいに自分とつながりが現れることがあります。
萩原朔太郎はこの共通性から「道徳」や「愛」が生まれ、その共通性は人と人の間だけではなく、人と植物、人とモノ、人と社会の間にも生まれると言っています。詩のことばは一人ではいきていけない我々にとって、自由でありつつ人とつながるにはどうすればよいか、考えるきっかけとなるでしょう。
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6/9 おもうままに書くだけの会
いつもは「読む会」をやっていますが、実験的に書くこと会をやってみます。