それでも愛に夢を見る −『マーキュリー・ファー』の祈り−
吉沢亮、北村匠海が出演する舞台『マーキュリー・ファー』兵庫公演を観に行ってきた。私には『マーキュリー・ファー』という作品について何の前情報も知識もなく、正直なところこの主演2人を生で観たいというだけの理由でチケット抽選に応募した。チケットは相当な争奪戦だったようで、私も東京含めた6公演応募したものの当選したのは兵庫の1公演だけだった。当選しただけものすごくラッキーだった。しかし、生の吉沢と北村だ! とウキウキで当日を迎え、ウキウキで座席についた私はその後展開される2時間に役者の美しさを楽しむ余裕もなく呆然としてしまった。
何だこの脚本は、と思った。
この脚本について、ほとんど前情報がなかったというのもわかった気がしたし、今までの人生でも、観たことのないものを観たと思った。一夜明けても、そして観劇から一週間経っても、彼ら兄弟のことが頭から離れない。頭から離れないうちに、彼らのことを書き残しておこうと思う。主に兄弟の印象的な対比について、そして彼らがそれぞれに持つ愛について、彼らの最後の選択について、思うことを書き残しておきたい。ちなみに盛大にネタバレしているので観劇後の参照をおすすめする。
過去を引き受けるエリオット/今しか持てないダレン
エリオットとダレンは対照的な兄弟である。粗暴で常に激しく苛立ち、怒号を上げるエリオットと、兄の怒号に怯えながらも兄から決して離れず、不思議にイノセントな言動で彼に向かっていくダレン。しかし彼らの対照性は物語が進むにつれて、それが彼ら本来の気質ではなく意図的に「作り上げられた」ものであることがわかる。
舞台であるこの街は”バタフライ”に支配されている。彼らの言動や物語の文脈からして”バタフライ”とは恐らく麻薬の一種であり、街に住む人間のほとんどすべてがこれを常習しているらしい。そしてこの麻薬というものは、快楽と引き換えにどうやら記憶を失わせる類のものであるらしいことが作中で示される。エリオットはこの”バタフライ”の売買によって生計を立てており、この街にとって、そして兄弟にとっても”バタフライ”というものは最早なくてはならないものであるようだ。
しかし、その”バタフライ”に対して兄弟の立場は違う。
ダレンはエリオットからたびたび”バタフライ”をもらい、日常的に摂取しているのに対し、”バタフライ”の売買で生計を立てている当のエリオットは”バタフライ”に手を出したことがない。つまりエリオットは”バタフライ”の快楽に支配された世界で、ただ一人正気を保った人間なのだ。
”バタフライ”を摂取しているダレンは常に記憶喪失の状態にあり、基本的に「今このとき」しか認識することができない。時折彼は声を上げ、唐突に過去の、家族の記憶を語り始めるが、それらはどれも断片的なものであり、すぐに霧散してしまう。彼は過去をその身にとどめ置くことができない。
対して”バタフライ”に手を出さないエリオットは、自らの過去ほとんどすべてを覚えている。それは彼自身が、そして舞台終盤でスピンクスが語るように凄絶な過去である。彼はそれを”バタフライ”に逃避することなく引き受ける。彼が常に苛立っているのも、些細なことで怒号を上げるのも、彼の中には過去が息づいているからだ。狂った世界、誰も真実を見ようとしない世界でただ一人、彼だけが自分の過去、そして現実を正気の目で見つめている。そしてその不条理さが、彼の体を怒りで満たしている。
「ものすごく愛してる」
作中でやり取りされるこの兄弟の会話はひときわ印象的である。「ものすごく愛している」からこそ、彼らは互いへ身体的にアプローチしようとする。つかむ、悲鳴をあげる、蹴る、殴る、血を流す。そしてこの一連のやり取りが終わったあと、彼らは笑顔で抱き合う。まるで存在を確かめ合うかのように。
けれど、作中の彼らの行為や動機を考えるとき、「愛ってなに」と思わずにはいられない。
エリオットはダレンに”バタフライ”を与える。この狂った世界で彼が少しでも生きやすくなるように、この狂った世界が彼を苦しめないために、この狂った世界に彼が向き合わなくてもいいように。その代わりに自分は”バタフライ”に手を出さない。まるで辛い思いをするのは自分一人で十分だと、ダレンの苦しみまで自分が引き受けてやるのだというように。
けれどそれは本当に愛なのだろうか。
エリオットは確かに弟を大切に思っているだろう。この狂った世界から彼を少しでも守ってやりたいと強く願うくらいには。
けれどダレンが何度も口にするように「エリオットは賢い」のであれば、彼は弟に”バタフライ”を与えることをせず、彼の正気を奪わないままで、この荒廃した街から二人で脱出し、二人で新しいスタートを切るという未来も視野にあってよかったはずだ。それはダレンの正気を、彼自身の強さを信じた選択でもある。けれどそうしなかったのは、エリオットが、ダレンのことを「愛して」はいても「信じ」てはいなかったからではないだろうか。
また、エリオットはダレンに”バタフライ”を与えることによって意図的に弟を「破壊」し、自分に依存させ、自分しか頼る者がいないという人間を作り出し、そうすることによってダレンを自分の生きる糧にした、と考えることもできる。エリオットは自分が生きていくためにダレンをその手で作り変えた。ダレンを「愛する」ことを自分の生きるよすがとしたのかもしれない。
愛は愛としてここにある。愛はあらゆるものを包括する。けれど絶対的に「愛」=「信じる」とはならないし、「賢い」=「強い」にもならない。誰かを愛すること、その人にしてあげることが、必ずしもその人のためになる、プラスになるとも限らない。だから、私は「愛ってなに」と思わずにはいられない。この作品において愛とは、絶対的に美しいものとして描かれていない。愛とはとてもエゴイスティックなものであるということからも、この脚本は決して逃げない。
銃口が向かう先
作中で、エリオットは世界がどうにもならなくなったとき、いよいよ自分が耐えられなくなったとき、自分の手でダレンを殺すと語る。
そして世界は彼が語る通り、いよいよどうにもならなくなる瞬間がやってくる。この荒廃しきった街を「清算」するために、爆撃が始まるというのだ。
街は灰燼に帰し、ここにはびこっていたあらゆる暴力も、腐敗も、全てがなかったことになる。それがこの街の狂気が行き着く最終地点であり、エリオットにとって、「いよいよ自分が耐えられなくなったとき」だった。
爆撃が始まるなか、エリオットは銃口を弟に向ける。もうこの世界は、生きていくには辛すぎる。こんな世界を弟に生きさせたくない。こんな世界から
早く弟を解放してやりたい。だからこの手で彼を殺す。だって、愛しているから。
けれど、その銃口は果たして弟を撃っただろうか。
この場面はエリオットがダレンを撃ったかどうか明確には分からない演出がなされている。私は脚本においても撃った、撃たない、どちらかが明記されているとは思えない。エリオットがダレンを最後の最後で撃ち殺したかどうかは、観客の解釈に委ねられていると言ってもいいと思うのだ。
その上で、私は、エリオットはダレンを撃たなかった、撃てなかったのではないかと思うのだ。
世界がどうにもならなくなったら、自分が耐えられなくなったら自分が弟を殺すとエリオットは確かに言った。けれど、いよいよどうにもならなくなったとき、私にはエリオットにとってある誤算が起きたような気がしたように見えたのだ。それが弟の、ダレンの、「それでも生きようとする」強い意志と渇望の発露である。
前章で、私はダレンは「今このとき」しか認識することができない、過去をとどめ置くことができない人物であると書いた。そしてこの作品のクライマックスは、まさに「今このとき」しかない展開になる。過去も未来も何もかもが爆撃によって消し飛ばされてしまう。何も残らないし、何も生み出さない。そんなときに、エリオットが引き受けていた過去というものは最早意味を成さなくなる。彼は果たしてそれを予想していただろうか、たとえ世界がどうにもならなくなったときを想像しても、こんな結末になるとは、彼にはそこまで考えが及んでいただろうか。これは、この現実は、彼が「どうにもならない」と受け入れられる以上のものではないか。
そこで立ち上がってくるのがダレンの圧倒的なイノセントである。過去も未来も何もない彼の、ただ「生きたい」という、「ものすごく愛してる」という、「今このとき」の強い意志。そのイノセントはエリオットが意図的に彼にもたらしたものだ。あるいは自分が生きるために利用したものであるかもしれない。けれどその、自分が作り出した彼のイノセントが、最後の最後で強烈に光り出すのである。それまでエリオットの「愛」に包まれていたダレンが、最後の瞬間になって、ダレンの「愛」がエリオットを包み込んだように、私には見えたのだ。それはまるで、彼が依存していた”バタフライ”から文字通り「羽ばたく」瞬間であったように、見えたのだ。
その、弟の心の底からの渇望を目の当たりにして、エリオットは、彼のイノセントに自分自身をとうとう明け渡したように見えたのだ。
けれど断っておきたいのが、エリオットがダレンを撃ったとしても、撃たなかったとしても、それはどちらもエリオットが持つ愛の否定にはならないということである。
もしエリオットがダレンを撃っていたとしても、それは彼の愛の貫徹である。愛する弟をこれ以上苦しめないために、この狂った世界から早く弟を解放してやるために彼を殺すのは、彼がずっと持ち続けていた弟への愛の貫徹である。
かたや、もしダレンを撃たなかったとしても、それはそれでダレンへの愛の貫徹だ。最後の最後で彼のイノセントを信じ、自らを明け渡し、最後の瞬間まで二人でいようと決意することも、弟を信じた彼への愛に他ならない。
この作品において、彼らの愛は絶対に誰にも否定できないのだ。
それでも愛に夢を見る
この作品で描かれる愛というのは、必ずしも美しいものではないかもしれない。愛することと信じることは違うし、愛するからといって強くなれるわけでもない。自分を生かすために人を愛するのであって、無償の奉仕はあり得ない。愛はどこまでもエゴイスティックで、人を愛するようでいて、実は自分を愛している。
だからこそこれは「愛の物語」なのだと思う。
けれど、同時にこの作品は「愛はどこまでこの世界に立ち向かうための武器となるのか」「愛はどこまで信じていいものなのか」を切実に、誠実に問いかける。そして、「愛とはそもそも何なのか」という問いはあれど、「どんなに世界が狂っていても、愛だけは最後までそこにあり続けて欲しい」という深い祈りが込められている。
この戯曲はイギリスの劇作家フィリップ・リドリーが2005年に書き下ろしたものであり、当時自国やアメリカが推し進めたイラク戦争や世界情勢への痛烈な批判が込められている。この戯曲はフィクションと現実が地続きになったものであり、2015年の日本初演時にはIS(イスラム国)が台頭し、そして2022年の今回は奇しくもロシアによるウクライナ侵攻の最中での再演となった。私はそのことに思いを馳せずにはいられないし、改めて、自国が暴挙を起こし、その自国が侵略される立場になったならと、考えずにはいられない。
そのとき、その極限状態の中で、愛は、どれほどそこにあるだろうか。どれほどそこに、残り続けてくれるだろうか。エリオットとダレンの姿に、私はどれほどの愛を見出せただろうか。わからないけれど、そこには確かに祈りがあった。どんなに世界が狂っても、生きていくには辛すぎる世界でも、どうか、人を愛して欲しいと。愛して、生きて欲しいと。