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怪物になれなかった無数の彼女たちへ −『メアリーの総て』

どうしてこんなに泣いているのだろうと思った。
夜更け過ぎに雪へと変わるかどうかはわからない雨降りしきるクリスマスマーケットを抜けて、イルミネーションに照らされながらわたしは滂沱の涙を流していた。
ヘッドホンの電源を入れiPhoneとつなぎ、シャッフル再生モードにすると1曲目には鬼束ちひろの「嵐ヶ丘」が選ばれた。
そして私は怪獣になった。共犯者はもういない。

18歳、まだ少女を抜け出し切れない彼女が『フランケンシュタイン』を生み出すまでの映画『メアリーの総て』を観た。エンドロールに向かって駆け抜けていくメアリーの姿を見る頃にはわたしは見事に嗚咽していた。両手で顔を覆って泣きたいくらいだったがメガネが邪魔をしてそれはできなかった。
どうしてこんなに泣いているのだろうと思った。何がそこまでつらかったのだろうと考えた。
すべてだった。彼女の人生すべてがわたしには悔しくて悲しくて、だけどわたしは悔しいと悲しいだけで気持ちをまとめてしまった、つまりわたしは「諦めてしまった」人生に、「これこそわたしの人生だ」と堂々と宣言した彼女すべてに泣いたのだった。

作家の両親のもとに生まれたはいいが母親は自分を生んで死に、育った家もまたヒマでお金がない。美しく才能もあった詩人と恋に落ちたはいいが彼もまた共に過ごしてみれば思っていたような男ではなかった。この子のためならと思えた最愛の娘はあっけなく死んだ。
こんなはずではなかった。いろんなことに裏切られた。自分は才能があると思っていた。家さえ出られたらこの才能は開花するはずだった。でもそんなこともなかった。
なんでよ。
こんな人生にするはずじゃなかったよ。こんなもののために生まれたんじゃなかったよ。

でも生きたいんだよ。

彼女がペンを取ったのは、絶望だらけの人生にいて、ただただ、それでも生きたい切実な願いがそうさせたのだと見えた。わたしに何があったのか、何を見ていたのか、どこにいたのかを、この手で確かめないと生きていけない。
創作するには自分が不幸ではなくては、孤独ではなくては、とよく目にすることはあるけれど、そう言われる所以というのは彼女が自身の絶望によって『フランケンシュタイン』という傑作を生み出したというような前例が今日まで積み重なってきたからではないか、と思った。もちろんすべての不幸が必ずしも傑作に繋がるわけはないし幸せな人に創作はできないわけじゃない。
だけど、絶望の只中にいる人が生きようとするには、少なくとも「わたしに何があったのか」ということに正面から向き合わなくてはならないのだと思う。望まない、見たくもないこの人生を、骨まで感じること。
絶望した人間に生きる価値がないとは誰にも言わせないために生きようとすること。

生み出したものが「怪物」であったからこそ、彼女は人生を受け入れられたのかもしれない。
いろいろあった。望んだ人生ではなかった。だけど、これはわたし自身の選択がもたらした結果であり、わたしの人生の責任はわたしのもとにある。わたしの人生を代わりに生きてくれる人なんてどこにもいないのだ。たとえ夫であろうと、もしかすると生き延びられたかもしれない小さな娘であろうと。だれにも、どこにも。
これがわたしだ。わたしはここにいる。この身すべての絶望をさらけ出してでもわたしは生きる。
わたしの存在はわたしが証明する。わたしはここで生きている。

彼女は怪物を生んだ。けれど、怪物になれなかった、自分の不幸を嘆くことも許されなかった、あるいはこれが不幸なんだと知り得ないまま踏みにじられて枯れていった無数の彼女たちもまた、そこにいる。
『フランケンシュタイン』草稿を読んで、これはわたし自身のと声を詰まらせたクレアは自身の不幸、辱めを正当に評価できず、怒っていいことなのだと思えないまま生きてきた、そうするほかに生きる方法がわからなかった彼女たちのひとりだ。彼女たちは怪物にねがいを託す。恐ろしい物語だけど、復讐が果たされてほしいと願ったわと語り、涙をこぼす。
わたしはここにいると声を上げられないままに死んでいく無数の彼女たちがいる。怪物に自分を託さずにはいられない彼女たちがいる。
「絶対に出版してね」というクレアのエールを聞いた瞬間、わたしは涙が止まらなくなってしまったのだった。

わたしはここにいる。
ただそれだけのことに声を上げるのが、どんなに難しかったか。女性が書くには不適切なテーマだとか、匿名でなら出版してもいいとか、そもそも女性であるというだけで男性よりも知性が劣っていると平気で言われてしまうことだとか、どんなに、どんなに悔しかっただろう。悲しかっただろう。
諦めて家に帰ることもできた、夫に助けを求めることもできた、平凡な本屋の暮らしへ戻ることもできた。だけど彼女は自分の才能、可能性だけを一心に祈り、歩みを止めなかった。彼女の人生は彼女が引き受けているのだから。

駆け抜けていく彼女の表情は晴れ晴れとしてどこか焦燥感に満ちている。
生きる。絶望すべてを愛するために。生きる。誰にどれだけ虐げられても、花を咲かせる。怪物になれなかった無数の彼女たちの亡骸に、ようやく彼女が息を吹き込んだのだ。

無傷で過ごせたとしても
奇妙な揺れを待っているの
心を震わせながら
ー鬼束ちひろ「嵐ヶ丘」

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kyritani
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