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組み立てられないあの子、あたし –『チワワちゃん』

こういう子はやっぱり死んでしまう以外に物語の中で選択肢がないんだろうなあと思った。
強烈に個性的で、鮮烈に輝いていて、目が眩むほどに可愛くて、ただそこにいるだけで人の視線を独占してしまう、一瞬で集団の力関係を変えてしまう、「今このとき」しか見えていない女の子。
未来のことはわからないし、考えたくないし、今が楽しければ、今さえ輝いていられたらそれでいい。そういう子は時間の不可逆性に存在自体が耐えられない。彼女自身の意思が及ぶところではなく、物語の方から締め出されてしまう。
そうしないと周りの人間たちの進行に支障が出るからだ。

東京で発見されたバラバラ死体の身元が判明した。
それがあたしの知ってる「チワワちゃん」のことだとは、最初思わなかった。大体あたしはチワワちゃんの本名すらも知らなかったのだ。
先週公開された映画『チワワちゃん』について、思うことがたくさんあった。

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バラバラ死体の身元がチワワちゃんだったことを受けて、ミキは生前の彼女のことを知りたいという雑誌の取材に応える。同時にミキは自分の足でチワワのことを仲間たちに聞いてまわる。
彼らの断片的なチワワとの思い出をミキは組み立てていく。
自分自身の記憶も材料にして、ミキはチワワを組み立てる。

なぜチワワはバラバラにされなくてはならなかったのだろう。
ミキが仲間たちから聞かされるチワワのエピソードには知らなかったことも多く、仲間同士で言うことが食い違っている話もある。チワワという彼女がどんな性格をしていたのかも、人によって捉え方が違う。
でもそれはわりと当たり前の話だ。誰もが自分の生活の主人公は自分なのだから、自分の目と主観を通してしかチワワのことは捉えられない。チワワは彼らの物語の中にいる限り、「主人公」には決してなれない。
情報が集まるにつれチワワは組み上がっていくように思えるけれど、主人公になれないチワワは断片の寄せ集めでしかなくバラバラのままだ。
チワワは最初からバラバラだった。バラバラの「チワワ」が「千脇良子」を侵食し、ひとりしかいない「千脇良子」は物理的にバラバラになるしかなかった。

そもそも、チワワちゃんは本当に人間だったのだろうか?
と、疑う人は多いかもしれないな、と思った。
チワワにはみんなの視線、あこがれ、ねたみが一心に集まっている。他人から浴びせられるものがチワワを作る材料になり、「こうなりたい」「こんな子にはなりたくない」というイメージたちがチワワを人の形にさせている。
それらがなくなってしまえば、人が彼女に関心を示さなくなれば、チワワは人の形を保てなくなる。
バラバラになる、ということについても、こう考えることもできる。
チワワと共に過ごした仲間たちは次第に集まるのをやめて、個々に生活をしていく。心はゆっくりと離れていく。仲違いとまではいかなくても、なにもかもはいつまでも同じようにはいられない。
心が離れる。みんなバラバラになる。
チワワは『彼ら』のメタファーでもある。

だけどチワワはチワワで心がある。みんなの顔をいつまでも覚えている。
チワワが何かのメタファーだろうが亡霊だろうが本物の人間だろうが、彼女自身、「みんな」がいないと自分は生きていけないということはどこかでわかっていたはずだ。
チワワは一時期住所不定となり、友達の家を渡り歩く放浪の旅に出る。
友達の家を泊まり歩くことで、チワワは仲間たちと個別につながりを持つようになる。(それが仲間たちの記憶が散在する理由になる)
だけど、1対1ではだめなのだ。1対多数のバランスでなければチワワはチワワでいられない。
それも、協力して盗みおおせた600万円で豪遊した3日間を共にした「みんな」でなければ。
彼女はわかっていたはずだ。

チワワはいつも連絡がつかなくなる。
ミキが聞いて回った仲間たちは口を揃えて同じことを言う。急にいなくなるからさ、心配はしてたんだけどさ、ほらあいつすぐ連絡つかなくなるじゃん?
そうなんだろうか。
みんながみんな本当のことを言っているとは限らないんじゃないか。
あのときいちばん正直だったのは、言葉にもできず暴力とセックスに走ることしかできなかった、吉田くんだったんじゃないか。
みんながチワワのどこか、チワワと自分の間に起きた何らかの出来事をを隠す、あるいは思い出さない限り、チワワを殺した犯人も出てこないんだろうなとぼんやり思う。
きっと犯人は永遠に見つからない。

もうひとつ。
あたし達は東京の街でチワワちゃんに出逢った。なんとなくこの場所で、こんな所で。と繰り返し語られることから、チワワを構成する要素のひとつには間違いなく「東京」という街がある。
映画と原作の最後にはチワワへの手向けとして、仲間たちが朝の東京湾で自己紹介とチワワに関する思い出を永井くんのカメラに向けて語るシーンがある。
そこで初めて気づくのが、この仲間たちの中で東京出身なのはミキだけだということだ。

東京にはあらゆる地方から人が集まってくる。入れ替わり立ち代わる。
チワワのことも、東京という街が引き起こした都市型の悲劇だとワイドショーでは騒がれる。
でも、そもそも東京って何なんだろう。何が東京を東京たらしめているのだろう。

チワワもまた東京出身ではない。だけど彼女こそは「東京」の申し子とも言うべき、今を生き、存在を発信し、注目の的になり、にも関わらず誰も彼女のことをよく知らない女の子だった。
対して本物の東京出身であるミキは基本的にあまり元気がない。

わたしは、この物語でミキが語り部であることには意味があると思う。
それは、ミキがかつて吉田くんのことをなんとなく好きで一回セックスもしてみたけどうまくいかなくてそんな吉田くんが連れてきた新しい彼女がチワワだったのでなんとなく気になっていて、という理由だけではないものがあると思う。
東京出身の彼女が、「東京」の申し子の死と足取りを追いかけて、自分のことを考える。
この映画は、東京自身の自分探しの旅でもあるんじゃないだろうか。

だるい顔で、下に落ちていく声で、チワワちゃんにもいつも微妙な顔を向けていたミキちゃんは、誰よりもいつまでもチワワちゃんのことを覚えているだろう。
自分がやりたくて、あこがれていて、でも結局趣味レベルで終わってしまったことをいとも簡単に、目の前で飛び越えて見せた彼女のことを、若いままバラバラ死体で殺されるというセンセーショナルな死に方をしたことも、死んでなおR.I.Pのツイートが回ってくることも、生涯うらやんで生きるのだろう。
そんなミキちゃんの感情が、何よりもチワワちゃんへの手向けになるのかもしれない。 そんなことをふと思った。

#チワワちゃん #映画 #映画感想 #movie

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kyritani
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