『プロミシング・ヤング・ウーマン』が仕込んだ悲しみ −その復讐は本懐を遂げるのか−
飲み会の席で泥酔した女性に対し男性が同意なく性行為に及ぶ、あるいは故意に泥酔させられた女性が男性複数からのレイプ被害に遭う、という事象、犯罪は日本国内だけを見てみても過去にいくつも存在しているし、国外まで目を向けるならもっと枚挙にいとまがない。そして大衆に可視化された事件の下に、未遂に終わった、あるいは女性が被害を報告しなかった、泣き寝入りした、報告はしたが出来事そのものをもみ消されてしまった無数の性被害が存在している。
映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、まさに「存在をもみ消されてしまった性被害」「声を剥奪された女性」の存在に怒りを燃やし、当事者たちへ「復讐」していく一人の女性の物語だ。
==以下、全部ネタバレしています==
アカデミー脚本賞は伊達じゃない
キャリー・マリガン演じるキャシーは医大を中退し、30歳になって実家暮らし、恋人も作らず結婚のけの字もなく、どこにでもありそうな平凡なカフェで働いている。しかし同時に彼女は夜毎バーへ繰り出し、一人で泥酔しているフリをして、「お持ち帰り」を仕掛けてくる男たちに鉄槌を下して朝帰りという生活を送っている。彼女を突き動かしているのは、かつて医大に在籍していた時の一番の親友だったニーナを亡くしたその怒りだ。作中ではっきりと語られることはないが、ニーナはある飲み会の席で泥酔し、同期の男性たちに同意なく性行為を強いられた。彼女はその夜自分を犯した同期を告発するが、その同期の「将来」のために彼女の告発はもみ消されてしまう。彼女自身もまた成績優秀であり、「前途有望な若い女性」だったにも関わらずだ。かくして彼女を犯した同期はその後医者として成功する。かたやニーナは、自殺してしまう。
キャシーはニーナの一番の親友であり、彼女のことを崇拝してもいた。またキャシーもニーナ同様成績優秀で「前途有望な若い女性」でもあった。しかし彼女はニーナを喪い「あの時一緒についていたら」と悲しみに暮れ、それはやがて自分が属する医大への、同期たちへの、そして男性への憎しみに変貌し、彼女は自分にも約束されていたであろう前途有望な将来を捨てて「復讐」に身を転じることを決意する。
アカデミー脚本賞を受賞しただけあって、この映画の脚本は非常に緻密かつ巧妙である。それはキャシーの復讐計画がそれだけ緻密ということでもある。彼女は夜毎バーで泥酔したフリをして、邪心を持って近づいてくる男たちに無差別に鉄槌を下していくと同時に、かつてニーナの事件に関わった医大の同級生や教授、弁護士、そしてニーナを犯した張本人への復讐へと駒を進めていく(これは働いていたカフェで偶然かつての同級生ライアンと再会し、彼をきっかけにして彼女の復讐心が拡大するからなのだが)。キャシーは常に用意周到で、かつてニーナが受けた同じだけの苦しみや恐怖をその当事者たちに課していく。キャシーが復讐のチェックメイトを仕掛けるたび、ざまあみろと言いたくなる。身から出た錆だ、思い知れ、悔やめと言ってやりたくなる。キャシーが復讐の駒を進めるたび、観客はカタルシスを得られるような作りになっている。物語のテンポもよく、途中でダレることもなく、最後まで観客はこの映画の展開に飽きることはない。最後の最後まで計算し尽くされた展開であり、全てはキャシーの計画通りに進んでいく。
しかしそれはそれとして思うのだ。彼女の復讐には一体どれだけの意義があったのかということを。
本当に痛快なだけ?
そもそも、物語の主軸となっているキャシーのニーナにまつわる復讐劇は偶然の産物によって始まったことである。彼女が働いているカフェに偶然かつての同期がやってきて再会を果たし、そこからかつての同級生たちについて話が及んだために彼女はそれまで不特定多数の男性を狙った深夜のバーでの攻撃から、さらに個人的な過去に踏み込み、私刑としか言いようのない復讐に身を駆り立てるようになっていくのだ。
しかし、結果としてこの私刑の方が不特定多数を狙った攻撃よりも、より人間の、男女の、本質的な悪と倫理観の欠如に踏み込むことになる。相手が泥酔していて意識も朦朧としているなら「お持ち帰り」してもいい、同意なく性行為に及んでもいい、という倫理観の欠如、さらにはそれを傍観し、自分に非はなかったと臆面もなく言い切る倫理観の欠如、「泥酔する方が悪い」とのたまってしまう倫理観の欠如、そしてレイプ被害に遭った女性の告発を「相手の男性の将来の方が大切だから」「こんな告発にいちいち付き合っていたらきりがないから」と、女性側の声を恣意的に消してしまう悪意。それらは全て各々の「正義」の下になされている。「泥酔した女性を介抱するいい奴、俺」「レイプには加わらなかったいい奴、俺」「泥酔する方が悪い、対して節度を守れるいい奴、私」「優秀な学生の将来を守ってあげられたいい奴、私」これらは男女ともにそうなのである。この映画は女性が女性の不条理に対し男性に復讐を仕掛ける物語ではない、もっと普遍的な悪にたった一人の女性が身一つで立ち向かい、破滅していく物語なのだ。
現に、彼女は破滅する。真実を知り、考えに考え抜いて導き出した計画を秘め、彼女は最後の復讐の場所へ向かっていく。それはまさに捨て身の特攻であり、命と引き換えに成し遂げた制裁だった。そう、彼女は殺されてしまうのだ。エンドの展開がどうであれ、彼女は生きて勝つことはできなかったのである。
その復讐は本懐を遂げるのか
また、この映画のエンドを見届け、彼らのその後を思うとき、果たしてキャシーの本懐はそこに残っているだろうかと疑わずにはいられない。結婚式の場で逮捕された男たちはあくまでキャシー殺害の罪に問われるのであり、かつて学生時代に泥酔した同級生をレイプした罪が俎上に載ってくることはきっとないと私は思うのだ。キャシーの望みは親友ニーナを傷つけ、辱め、声と未来を奪い、自殺にまで追い込んだその落とし前だったはずだ。けれど皮肉にもキャシーが殺されてしまったことによって、彼女の殺害の罪がそれを上塗りしてしまう。キャシーが本当に望んだことは、ほかならぬキャシー自身によってさらに闇の奥へと葬られてしまうのである。
それを思うならば、この映画を手放しに見事なリベンジエンターテイメントと評するのは早計ではないだろうか。キャシーは身一つで果敢に反撃の狼煙を上げ、向かうところ敵なしであったわけではない。むしろキャシーは自分の手に余るほどの大きな敵に、個人的理由だけを武器にして、自分の手の届く範囲で自分のやれることしかできなかったのだ。そう考える方が個人的には腑に落ちる。映画館からの帰り道、見事な脚本だったと振り返るとき、そこに単純なカタルシスだけではないほのかな物悲しさを、私はどうしても無視することができない。
「これで終わりだと思ってないよね?」
これはキャシーという一人の女性の物語であり、同時に女性を取り巻く現代の寓話である。
登場人物たちは様々な立場の代表者であり、概念だ。被害の当事者、加害の当事者、傍観の当事者、無関係を主張する群衆、「泥酔する女も女だ」という加害擁護、「男の将来>女の将来」というジェンダーバイアス。これは現代に生きる男女どちらもが持っているものであり、決して男vs女という単純な二項対立では語れない。キャシーと同じ女であるからといって、彼女の糾弾から逃れられるわけではない。この映画のどこかには自分も存在しているということに、観客は意識的でいなくてはならないだろう。
だからこそ、彼女が残した最後のメッセージ「これで終わりだと思ってないよね?」は私たち観客に向けられたものとも捉えられるべきなのだ。これで終わりだと思ってないよね? これでめでたしめでたしなんて思ってないよね? スカッとしたな、なんて、他人事のように帰っていかないよね? あんたのことだよ、そう、あんた。
キャシーは生きて勝つことはできず、彼女の物語は終わってしまったけれど、生きて劇場を後にする観客の意識改革はまさにここから始まる、いや、始まらなくてはならないのだ。まずはこのタイトル『プロミシング・ヤング・ウーマン』−「前途有望な女性」−という言葉が意味するものを、なぜこの言葉がタイトルになったのかを、なぜこのタイトルでなければならなかったのかを、私たちは噛み砕かなくてはならないだろう、顎が疲れて歯が欠けてしまうくらいまで。
噛んで、噛んで、噛み砕いて、口の中がボロボロになってもキャシーは指をさすだろう。
「これで終わりだと思ってないよね?」
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